日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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【鹿児島の特攻隊関連施設を巡る③】 桜花の碑(海軍神雷部隊寄宿舎および別盃之地) 

特攻基地慰霊の旅・・

祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、
鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。

今回紹介するのは鹿児島県の鹿屋。
人間爆弾桜花の神雷特別攻撃隊の宿舎があり
隊員たちが出撃の別れの水杯を交わした地です。

 

(人間爆弾桜花)

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月、鹿児島県の海軍鹿屋飛行場から人間爆弾・桜花の神雷特別攻撃隊が出撃しました。

桜花は、全長6mの胴体に小さな翼をつけた超小型飛行機です。機首部には1.2キロの
大型爆弾を搭載しています。この1機で戦艦や空母を撃墜できるとされています。

【桜花の碑案内板より】

 

桜花は、一式陸上攻撃機(7~8人乗り)の腹部に小判サメのようにくっついた形で取り付けられた状態で飛行し、敵艦に接近してから分離され目標に向けて発射します。

桜花にはエンジンがありません。母体から切り離された後に、グライダーのように滑空した後、固体燃料ロケットを作動させて加速し時速600キロで敵艦に体当たりします。そのため搭乗者は生還できません。

また桜花には生きて帰ることを想定していないために着陸用の車輪は装備されていません。魚雷に羽を付けたような形です。

操縦席には速度計や高度計など目的の敵艦に到達するための最低限の機器しかありません。

【桜花の碑案内板より】

 

(神雷部隊)

鹿児島県鹿屋市の野里国民学校の校舎は、1945年(昭和20年)春頃から、 鹿屋基地を出撃する神雷部隊の隊員たちの宿舎となりました。

【桜花の碑案内板より】

 

神雷部隊は第721海軍航空隊の別称です。

この部隊は、人間爆弾・桜花を主戦兵器として編成された特攻専門部隊で、「桜花」パイロットの桜花隊、「桜花」を運搬する陸攻隊、掩護の戦闘機隊、の3つで編成されました。

なお、神雷部隊の「神雷」という名称は「疾風迅雷」の音から由来しています。



出撃を待つ特攻隊員たちの生活は、 宿舎である野里国民学校から周辺の1km四方ほどが散歩区域に決められていて、 朝、隊員たちは近くの小川で顔を洗い、朝食の時間まで草むらに座って雑談するのが習慣だったそうです。

【桜花の碑案内板より】


特攻隊員たちと近隣住民との交流も行われたそうで、 地域の麦の収穫を手伝ったところ、住民から、当時大変貴重だった牛1頭、豚3頭、鶏卵数千個が 慰問品として届けられたそうです。


出撃を翌日に控えた隊員は、髪を整え髭を剃り、ドラム缶風呂に入って身綺麗にしてから眠りました。 翌朝起床すると、新品の下着に着替えてから飛行服を身につけ、白米、味噌汁で朝食をすませます。

「桜花の碑」が建つ場所は、出撃前に特攻隊員たちが整列し、別れの盃を交わしたところです。

そして隊員たちは崖側の台地へと続く坂を登り、トラックで出撃地となる鹿屋基地の
飛行場へと向かいました。

【桜花の碑案内板より】

 

(今も残る国旗掲揚台)

神雷部隊が宿舎として使用した野里国民学校。当時の物が今も残っていました。

下の写真の右側に見える国旗掲揚台です。

 【桜花の碑案内板より】

 

当時の国旗掲掲揚台。年月の経緯とともに朽ちていますが、面影は残っています。

この国旗掲揚台、様々な隊員の歴史を見てきたことでしょう・・。

(全滅の桜花初陣)

1945年3月21日午前11時20分、 野中五郎を指揮官とした第一次神雷桜特別攻撃隊に出撃命令が出ます。桜花の初陣です。
目標はおよそ500キロ離れた沖縄を攻撃中の米機動部隊です。

陸攻18機、直掩零戦19機、間接援護零戦11機というチームで出撃します。

しかし総重量が2トン以上ある桜花を積むと一式陸上攻撃機の速度が低下します。

そのため戦闘機の援護が必要でした。

桜花の初陣となったこの出撃ですが、目標地点の110キロ手前でアメリカ軍戦闘機の
迎撃を受け、敵艦に到着する前に陸攻隊は全滅、零戦10機が未帰還、戦死者は160名となりました。
18機の母機全機が撃墜されるのにかかった時間は15分から20分程度でした。

 

その後も神雷部隊の出撃は続きました。制空権をアメリカに取られている中、桜花を積んで重量が重くなり飛行速度が落ちた一式陸上攻撃機は、目標にたどりつく前に次々と米軍機に撃ち落されています。


終戦までに桜花55機、一式陸上攻撃機51機、護衛のゼロ戦のあわせて430人を超える命が失われました。

一方戦果は、米海軍の記録によれば 桜花に沈められたのは、1945年(昭和20年)4月12日14時46分の桜花特攻で撃沈された駆逐艦マナートLエイブリー(エイブル)1隻だけとのことでした。(一式陸上攻撃機 菅野善次郎さん 桜花搭乗員 土肥三郎中尉 
享年22)



(靖國の桜)

神雷部隊の将兵たちは戦死したら「靖國神社の御神門を入って右の二番目の桜の木の下に集まって再会しよう」を合言葉にしていました。

戦後生き残った戦友は、この合言葉を大切にし、実際に桜を奉納しています。

 

【鹿児島県観光サイト公式HP 桜花の碑】


<<桜花の碑への行き方>> 

車でしかいけないようです。
笠野原インターから垂水方面へ、国道220号・バイパス・県道550号を経由で30分以内。朝日神社の隣 道路沿い
住所:鹿児島県鹿屋市野里町 朝日神社の隣

 

桜花で亡くなられた方のご冥福をお祈りします

合掌