日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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B29による犠牲者の慰霊碑(福岡県北九州市八幡)

 太平洋戦争末期、B29による攻撃で命を落とした方々の慰霊碑は日本各地にあります。

その1つ、福岡県北九州市八幡。

八幡は、日本の重工業の中心地で、日本の工業化をけん引してきた官営八幡製鉄所

あるために米軍の攻撃目標になりました。

その八幡に、1944年(昭和19年)8月の空襲で命を落とした市民の慰霊碑があります。

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(日本本土空襲)

太平洋戦争末期、日本は米軍の空襲にさらされ焦土となりました。

米軍による日本本土初空襲は、1942年(昭和17年)の太平洋上の空母「ホーネット」から発進したB25爆撃機のドューリットル隊によるものです。

日本本土初空襲の攻撃目標は、首都東京などでした。

この空襲は太平洋上の米軍空母から爆撃機が日本に向けて出撃しました。

【日本初空襲について書いたブログはこちら】

 

やがて、アメリカ軍は、日本本土空襲用に超空の要塞と呼ばれたB29を完成させます。

 そのB29が初めて日本本土を空襲したのが1944年(昭和19年)6月16日。

中国の成都にある基地から出発した75機のB29が北九州地区の八幡製鉄所、兵器を作っていた小倉の陸軍造兵廠を中心に空襲しました。

 米軍の報告では「2機が日本軍に撃墜された」、一方、日本政府の報告では「6機を撃墜した」と報告されています。

【B29日本本土初空襲と小倉造兵廠について書いたブログはここ】

 

(8月20日2度目の八幡空襲)

 同年8月20日、2回目となる八幡空襲が計画され、中国の成都を出発したB29の一団が再び北九州に向かいます。

8月20日(日)16時頃、米軍の爆撃機数十機による空襲で、八幡市と隣の戸畑市内では二百数十名の死傷者を出しました。

北九州の上空ではB29と迎え撃つ日本軍との間で激しい空中戦がありました。

米軍との空中戦で、米軍機の攻撃を受けた日本軍の飛行機が、当時の住宅密集地であった富坂町(現山王三丁目)の民家に墜落し住民4~5人が生命を失っています。


そして、その戦争犠牲者の霊を慰めようと近所の人々が木製の碑を建立しました。
それの碑は現在、山王三丁目の東公園に石製となり建てられています。

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この飛行機のプロペラが付いた石製のものが慰霊碑です。

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隣には説明の看板があります。

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この公園には、こんなものもありました。

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皇紀2600年について書いたブログはここ】

さらに、こんなものも。 

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【八紘一宇について書いたブログはここ】

 

<<東公園への行き方>>

これはレンタカーで行くのが1番です。

(急な坂道の途中にあります。駐車場は公園のすぐ下にあります)

住所:福岡県北九州市八幡東区山王3丁目18

 

(「野辺これから体当たり」)

1944年(昭和19年)8月20日、工業都市八幡を襲った空襲では、

日本軍は「B29が日本襲来」という情報を事前に入手します。

そして、山口県の小月飛行場では2基のエンジンを搭載した双発の複座戦闘機の

「屠龍」の部隊が迎撃態勢に入ります。
迎撃のために飛び立ったその1機、野辺重夫軍曹と後座席に高木伝蔵兵長が同乗した

「屠龍」は、北九州の折尾地区上空でB29の編隊に空中戦を挑みます。

 B29編隊長機に対し機銃での射撃を行いましたが歯が立たなかったために、このままでは北九州市内に大規模な爆撃が行われ市民が犠牲になると判断し「野辺これから体当たり」と打電し、戦闘機もろともB29に突っ込み、主翼とエンジンを破壊し爆破させます。

 爆発した破片と火の塊は、後続の2番機の翼を直撃し、その機は空中分解して破壊、墜落爆発して3日間燃え続けました。

つまり野辺・高木両氏が乗った戦闘機は、B29、2機を撃墜したのです。

この空中戦は、昼間ということで目撃した人も多くいたそうです。
そのため、自らの命を捧げて北九州を守った2人に敬意を現し顕彰する慰霊碑が、体当たり直後に市民の手で作られました。

忠魂碑の土台部分は、折尾の町民や小中学生が海岸から運んできた砂でできた手造りです。

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 忠魂碑の近くには説明文があります。体当たりの経緯が記されています。

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  野辺軍曹は、出撃前に仲間たちに「B29の編隊長機を狙い前方から体当たりすれば、その衝撃で破片が飛び散り、それが後続機に当たるので2機を撃墜することが可能だ」と語っていたそうですから、この特攻作戦は当初から予定していたのかもしれません。

 この攻撃で野辺軍曹と高木兵長は死亡。B29は機長、副操縦士、航法士、レーダー係など乗組員が全員死亡します。

 巻き添えで墜落したB29の2番機では機長など6人死亡。3人が捕虜になり、副操縦士は、山中にパラシュートで降下して付近に潜伏していましたが、8月31日早朝に芦屋飛行場で飛行機を奪って逃げようとしているところを発見され、最後はピストル自殺をします。

一等軍曹は降下時に重傷となり陸軍病院へ送られ、のちに死亡します。

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 その慰霊碑は今も撃墜現場の近く、八幡西区の郊外にあるさつき台という住宅街近くの丘の上にひっそりと建っていて、毎年、8月の第1日曜日には地元の自治区の方々が清掃作業を行い、折尾神楽が奉納されているということです。

 

<<体当たりの碑への行き方>>

公共機関で行くのは難しいのでレンタカーで行ったほうがいいです。

住所:福岡県北九州市八幡西区大膳一丁目13番

公式HP  北九州市役所HP