戦時中に造られた防空壕を見てきました!!
太平洋戦争末期、米軍が空襲で日本本土に近づくと空襲警報が発令されサイレンが鳴ります。
すると、それを聞いた国民は命を守るために防空壕へと駆け込みました。
防空壕は、空から来る敵の攻撃に対し人員や施設を守るために地面を掘って作った壕や穴のことです。
今回、おっさんが訪れたのは千葉県館山市波佐間地区。海岸から少し歩いた波佐間バス停の近くに、防空壕が残されていました。
この防空壕は、山の斜面をくりぬいてできたようでした。
中は狭くて、しかも用具やゴミがあったので入ることができませんでした。
(戦時中に日本各地で造られた防空壕)
防空壕は、太平洋戦争末期、米軍機が日本本土の空襲を開始した時の避難所として、
職場、学校の校庭、山間の空き地や家庭に造られました。
米軍による空襲は、日本本土の大部分で繰り広げられましたので、当時日本にいた
多く人が防空壕に入った経験があると思われます。
2019年(令和元年)が終戦から74年ですから、その時に生まれた人も親に連れられて
防空壕に入ったと思います。つまり、今74歳以上の方の多くの人が防空壕を体験したと思われます。
防空壕は各地に造られましたが、戦争中の資材不足のために完成度が満足なものではなく、「単に穴を掘った場所に隠れるだけ」と言った感じの防空壕もありました。
そのため、貧弱な造りのために、壕の中で生き埋めになったり、大量の焼夷弾が落ちてくる中で蒸し焼き状態や酸欠になって死亡する人々もいたそうです。
(本土空襲)
本土空襲は、太平洋戦争中に、米軍を中心にした連合軍が日本本土の各都市に対して行った爆撃のことで、特に戦争末期の1944年(昭和19年)末からは本格化しました。
それまでは軍事施設が攻撃目標でしたが、3月10日の東京大空襲からは焼夷弾を使い民間人をも攻撃対象にした無差別爆撃となりました。
終戦の日まで200以上の都市が空襲を受けたと報告され,2011年に日本経済新聞が発表した数値では、空数により33万人が死亡、43万人が負傷したとなっています。
この空襲の時に、被害を恐れて避難した場所が防空壕で日本各地に造られました。
しかし、戦後70年以上が経過し、現存する防空壕はわずかです。
(「関東防空大演習を嗤う」)
空襲と言えば、おっさんが思い出すことがあります。
1933(昭和8)年8月11日の「信濃毎日新聞」に桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)が
書いた社説「関東防空大演習を嗤う」です。
これは、陸軍が関東一円で行った防空演習に対して書いた社説で、内容を要約すると「木造家屋が中心の東京では空襲を受けたら焦土化する。それは関東大震災に及ぶ甚大な被害となる。防空しても、2つ3つは、防御網をかいくぐって空襲を行う。だから敵機を関東の空で迎え撃つのではなく、我が領土に入れないようにすべきだ」ということです・
この社説は、発表後にすぐに陸軍や在郷軍人会の反発や怒りを買い、桐生は退社に迫られます。
しかし、この社説は、未来預言書であり、空襲に備えて当時の市民は防火やバケツリレーの訓練なども行っていましたが、実際に空襲が始まるとそんなものは全く役に立ちませんでした。
防空壕に入るより、桐生悠悠が唱えたように「敵機を領土に入れないようにする」・・おっさんはこれが正論だと思います。
防空壕が必要となる生活が二度と来ないことを願います。
波佐間バス停で降りて近くを散策して下さい。防空壕は、山沿いにあります。
住所:千葉県館山市波佐間