日本は島国です。周りは海に囲まれています。
そのため海峡の警備は重要です。
おっさんは、これまで、津軽海峡、東京湾、関門海峡の守りとなった砲台を訪れましたのでまとめます。
1901年(明治34年)に函館山に造られた函館要塞、のちの津軽要塞には、28センチ榴弾砲が6門設置されました。津軽海峡に侵入した敵艦隊を砲撃する目的でしたが1度も
実戦に使う事はありませんでした。
東京湾に浮かぶ東京湾唯一の無人島の猿島は、かつては東京湾を守る「要塞の島」でした。
幕末の1847年、江戸幕府が猿島にお台場とよばれる要塞を日本で初めて設営し海の守りを固めました。
このころ日本は鎖国中で、外国船が幕府に開国を求めて姿を見せ始めていました。
(関門海峡の守り)
九州と本州の間にある関門海峡。
明治時代になると関門海峡一帯に下関要塞が建設されていきます。
(関門要塞 和布利砲台)
1889年(明治22年)に福岡県北九州市門司区にある布刈布神社の北側に和布刈砲台が造られました。
ここは対岸の山口県下関市までわずか1000mほどしかない関門海峡のなかで最も狭い
距離で、関門海峡を通過する敵艦を砲撃する目的でした。
(関門要塞 手向砲台)
福岡県北九州市小倉北区にある高さ76メートルの山・手向山(たむけやま)です。
明治期にここに造られた手向砲台には、6座の砲台があり24cm臼砲、2門据を配備していました。
(番外編:亀山砲台)
これは、維新の夜明けの1つと言っていい出来事を起こした砲台です。
尊王攘夷の江戸時代末期の1863年5月11日、関門海峡(当時は馬関海峡と呼んでいました)を通過していたアメリカ商船に対し、長州藩の久坂玄端の号令で、この亀山砲台から砲弾が放たれました。その後、フランス・オランダ艦船に対しても同様に砲撃を加えました。
この後、長州藩はイギリス、フランス、オランダ、アメリカのいわゆる四国連合艦隊と戦いますが、軍事力の差が明らかで、下関市や彦島の砲台が破壊され、一部は占領されます。この戦いがきっかけで長州藩は討幕へと向かっていきます。
そのきっかけとなったのが、この亀山砲台です。
四方を海に囲まれた日本だからこそ、
砲台の重要性が重視されました。