1333年5月22日、
(高時腹切りやぐら)
神奈川県鎌倉市の祇園山の洞窟に、高時腹切りやぐらという場所があります。
高時腹切りやぐらは、神奈川県鎌倉市にあった東勝寺のすぐ近く、祇園山沿いです。
東勝寺は、北条得宗家の氏寺として13世紀前半につくられたものの1333年の鎌倉幕府滅亡に合わせ焼失しました。
東勝寺の跡は、下の写真のように、今は単なる草原になっています。
おっさんは、この高時腹切りやぐらに行ってきました。
北条高時の腹切りやぐらは、横幅も奥行きも10メートルもない小規模のスペースです。高さも2メートルほどです。
薄暗くて、何か怨霊みたいなのが潜んでいても、おかしくない雰囲気でした。
下の写真の石碑を左に曲がると自害した洞窟があります。
石碑の奥に見える洞穴が、高時腹切りやぐらです。
(弱体化する鎌倉幕府)
鎌倉幕府は、初代将軍源頼朝の息子たちが相次いで将軍職を継ぎましたが、
わずか3代で途絶えます。
その後は、将軍職は、京都の朝廷から名ばかり将軍を連れてきてつなげ、幕府の実権は執権職にあった初代将軍頼朝の妻・北条政子の実家・北条家の得宗家が握って、100年以上も続いてきました。
しかし、100年以上も続くと、ほころびや腐敗が少しずつ生じてきてもおかしくありません。
特に、1274年、1281年の2回にわたる元寇で、元軍の勢力を追い払ったものの恩賞が
不十分なことから幕府への不満が噴出します。
さらに鎌倉幕府内に腐敗した空気、得宗家と反得宗家の動きも顕著化してきます。
1316年に第14代執権・北条高時(在職ː1316年~1326年)が就任する前後から、鎌倉幕府の力は衰退の兆しを見せ、諸国での悪党が暴れだし、奥州で蝦夷が反乱を起こし安藤氏の乱などが起きます。
高時は執権の座を降りたあとも幕府の実力者でしたが、闘犬、酒宴などにあけくれていたそうです。
1318年に即位した後醍醐天皇は、天皇中心の政治に戻そうと、
1324年に「正中の変」、1331年には「元弘の変」と2度に渡って幕府打倒を
画策しますが、いずれも失敗して隠岐へ流されます。おまけに鎌倉幕府からは、
しかし、後醍醐天皇は、1年後に隠岐を脱出し、またまた鎌倉幕府倒幕を画策します。
鎌倉幕府倒幕の主要メンバーは、吉野山で活動を続ける後醍醐天皇の息子の護良親王、千早城を本拠地する河内の悪党・楠木正成、鎌倉幕府から後醍醐天皇側に寝返った源氏の血を受け継ぐ足利高氏(この「高氏」の「高」は北条高時の「高」からもらっていますが、後に「尊」に代えます)、同じく源氏の地を引く御家人の新田義貞でした。
足利高氏は、京都の六波羅探題を攻め滅ぼし、一方の新田義貞は、鎌倉に攻め込み幕府軍を撃ち破ります。
この時期、北条高時は執権の座を譲っていましたが、鎌倉幕府の権力者であり続けました。
(鎌倉幕府滅亡)
1333年5月22日、新田軍の攻撃で鎌倉が炎上。
北条高時は、一族を引き連れて、北条家の菩提寺である葛西ケ谷・東勝寺へとむかいます。
やがて鎌倉幕府討幕の戦いのなかで、最後の合戦となった東勝寺合戦がおきます。
新田義貞に追い詰められた北条高時ら、北条氏一族は、東勝寺に立てこもり、
自ら火を放ちます。
高時は、ここで自刃します。享年30(満29歳)。高時の一族や家臣など870人も死亡したそうです。
そして1333年5月22日、武家政権初の鎌倉幕府はここに滅亡します。
(建武の新政)
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政という念願の天皇を中心とした政治を始めます。しかし、公家を中心とする政治が行われ、武士などが不満を持ちます。
1335年7月、北条高時の息子の時行が鎌倉幕府復興を画策し鎌倉を占領する「中先代の乱」が起きます。しかし、20日余りの鎌倉占拠で終了します。
さらに足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、京都に独自に天皇をたてて、1336年に室町幕府を作ります。
この南北朝時代は1392年まで続きます。
というわけで5月22日は 鎌倉幕府が滅亡した日です。
<<高時腹切りやぐらへの行き方>>
JR鎌倉駅から徒歩15分(ちょうどいい散歩コースです)
住所:神奈川県鎌倉市小町3丁目11-38