現在、天皇は126代ですが、実は天皇として実在したのにカウントされていない
5月25日は、その光厳天皇が1333年に後醍醐天皇により廃帝となった日です。
(鎌倉幕府末期に即位)
蒲倉時代末期の1331年、8月、後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕を企てますが
そして、その年の9月、鎌倉幕府要請で19歳の光厳天皇が即位します。
戦闘や火事などで内裏が焼失した時に、再建するまでの間、天皇が臨時的に避難する
場所として里内裏(さとだいり)というものが複数設けられていました。
その1つで、光厳天皇が即位をしたことから、以後、その地が、天皇が住む地=
「御所」と呼ばれるようになり、これが現在の京都御所につながります。
鎌倉幕府討幕に失敗した後醍醐天皇は、鎌倉幕府から10月に廃され、翌年隠岐に流されます。
以後、光厳天皇の治世になります。
しかし1333年に隠岐を脱出した後醍醐天皇は、またもや鎌倉幕府倒幕を計画します。
5月、鎌倉幕府側の足利尊氏が鎌倉幕府にそむき京都の六波羅探題を襲撃します。
この年に新田義貞が鎌倉幕府を攻め、5月22日には、鎌倉幕府の実力者・北条高時や
その一族は自害します。
これをもって鎌倉幕府が滅亡します。
【鎌倉幕府滅亡について書いたブログはここです】
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は京都で、念願の天皇中心の政治・建武の新政を開始し、5月25日に光厳天皇を廃します。
光厳天皇の在位は1年半余でした。
この時、後醍醐天皇は「自身が鎌倉幕府から廃帝となったこと」と「光厳天皇が即位したこと」をも否定します。
これにより、光厳天皇そのものが否定され、存在しなかったことにされました。
しかし、建武の新政は長続きがせずに崩壊。
足利幕府が推す天皇(北朝)と後醍醐天皇の南朝とに分かれます。
光厳天皇は、光明天皇の時代は上皇になり院制をしきます。その後、次の崇光天皇との2代15年の間、上皇として院政を行います。
その後、光厳天皇は出家して日本を歩き、たどり着いた京都で隠遁生活を行い、1364年7月7日、52歳で崩御します。
幕府と朝廷に翻弄された人生を送った光厳天皇、
5月25日です。
そのほか、調べてみると、日本には自分から勝手に新し天皇である新皇と名乗った人や、天皇が2人即した時期、3人の天皇が同時に在位したこと、幕末に天皇に担ぎ上げられた幻の天皇などがいます。
【歴代の天皇について書いたブログ記事】