1868年(慶応4年)5月30日、新撰組・1番組組長の沖田総司が命を落とします。
その中の新選組の1番組長が沖田総司です。この人も人気が高いです。
(剣の使い手:沖田総司)
その後、江戸・市ヶ谷にあった近藤勇の天然理心流道場・試衛館で剣術を習い、
10代で免許皆伝、18歳で師範代を務めます。
(新撰組結成)
1863年、沖田は、近藤勇や土方歳三とともに上京し、芹沢鴨と壬生浪士組を結成、8月に壬生浪士組は新撰組と名を改めます。
しかし、内輪もめが起き、近藤勇と一緒に対立する芹沢一派を暗殺します。
沖田の剣の腕は相当なもので、新選組では剣術指南役を務めます。
翌年1864年には有名な池田屋事件を起こします。
(池田屋事件)
幕末、武士の間には、外国人排斥の攘夷派、天皇中心の政治を目指す勤皇派と幕府派、さらに外国の勢力を積極導入指示派・・・・などさまざまな思想が入り組んでいました。
そんななか、長州藩の尊王攘夷派は,肥後藩士の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)を
中心に,公武合体派の皇族、公卿,大名らを暗殺して蜂起する計画を立てます。
その具体的な戦略を練るために1864年6月5日に、京都の旅館・池田屋に
そこを京都を見回っていた新撰組の近藤勇、沖田総司などが襲撃したのです。
この戦いで長州藩の吉田稔麿(よしだ としまろ)、肥後藩の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)ら9名が死亡、20名以上が逮捕されました。
この池田屋のシーンで有名なのが、結核に冒された沖田が、血を吐きながら相手を斬るところです。
おっさんは この池田屋事件がおきた場所に行きました。
池田屋は居酒屋の池田屋になっていて、従業員が、青色の新撰組のハッピを着て働いていました。
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1865年に起きた新撰組の山南敬助の脱走事件で、沖田は捕まった山南が切腹する時の
介錯をしています。
新撰組の1番隊長として活躍を続ける沖田ですが、肺結核に冒されていきます。
1867年、新撰組の屯所が西本願寺から不動堂村に移転します。
この頃から、沖田の病状は深刻なものとなっていきます。
【不動堂村について書いたブログはここです】
しかし、沖田は病のため甲府まで行く事はできず、年号が「明治」に代わる半年前の1868年5月30日、20代で病没します。
ということで、5月30日は、