安徳天皇は平安時代末期の第81代の天皇。
父方のおじいさんは後白河法皇、母方のおじいさんは平清盛という素晴らしい血筋で、1180年に第81代天皇として即位します。
しかし、安徳天皇は、後白河法皇と平氏との対立、さらに源平合戦で、その人生を翻弄されます。
おじいさんの平清盛が亡くなると各地で反平氏の動きが起きます。
そして反平氏勢力の1つ源義仲が京都に押し入ったため、安徳天皇は、平宗盛以下の
平家一門に連れられ三種の神器とともに京都を離れます。
そして1183年、九州は福岡県北九州市門司区に御所を作り、そこに滞在します。
京都の都にちなんで 周囲に柳の木や梅の木を植え「柳の御所」と呼ばれていました。
ここは、現在は、柳の御所神社となっています。
また周辺は、宮中にちなんで内裏(だいり)と呼ばれています。
のちに漢字の表記だけ「大里」に変更され、今も地名が「だいり」で残っています。
【安徳天皇が一時身を寄せた福岡県北九州市門司の御所について書いたブログ】
1184年、後白河法皇が源頼朝に平氏追討令という勅令を下します。
また、この年の7月、後白河法皇は安徳天皇がいるにもかかわらず、後白河法皇の孫で安徳天皇の異母弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させ、後鳥羽天皇にします。
安徳天皇が退位しないまま後鳥羽天皇が即位したため1183年から平家滅亡の1185年
までは、日本史上初めて天皇が2人在位し重複するという期間が生まれます。
安徳天皇は平家一門と共に西国を転々としますが、平氏は源平合戦でことごとく敗れます。
兵庫県の神戸市周辺で行われた「一之谷の戦い」さらには、香川県高松市周辺で行われた「屋島の合戦」でもやぶれ、平家一門は長門の国(現在の山口県)の彦島に移動します。
そして、1185年、3月24日、源平最終決戦としての九州と本州の間にある長門の国壇ノ浦での海上決戦を迎えます。
平家の惨敗が確実となったとき、安徳天皇の祖母で平清盛の妻の二位尼(平時子)は、安徳天皇を抱きかかえ、三種の神器のうちの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を身につけ入水します。
そして安徳天皇はわずかかぞえ8歳で死亡します。
この壇ノ浦の合戦で、安徳天皇は平家一門と運命を共にし、海中に没して亡くなったとされています。
【壇ノ浦について書いたブログはここです】
壇ノ浦で亡くなった安徳天皇は、この近くの赤間神宮に祀られています。
壇ノ浦で死亡した安徳天皇。
しかし、実は生き延びたという説もあり、生き延びた安徳天皇が身を寄せた場所、あるいは隠れ家と言う場所が日本に数か所あります。
その1つが、壇ノ浦から近い福岡県北九州市小倉の「隠蓑」と言う地区。
「隠蓑」という地名からして何かありそうですが、ここは安徳天皇の隠れ家と言われ、それに由来するといわれるお祭りも受け継がれています。
【安徳天皇が生き延びたという隠蓑地区について書いたブログはここ】
安徳天皇、調べれば調べるほど
歴史に翻弄された天皇だなあと感じます。