鎌倉時代の1221年に起きた朝廷と幕府の争乱、
承久の乱。
7月13日、この戦いに敗れた朝廷側の指導者、
(源氏滅亡のタイミングで挙兵)
1219年3代将軍、源実朝が兄の頼家の子供で、実朝の甥にあたる公暁に暗殺され、
その公暁も殺される事で、源氏の本流の血筋が途絶えてしまいます。
源氏が3代で途絶えると頼朝の遠縁にあたる京都の貴族が将軍として迎えられ、
鎌倉幕府は頼朝の奥さんの北条政子の実家である北条氏が実質的に実権を握るように
なります。
一方、この時期、京の都で院政を敷いていて朝廷のナンバー1だったのが後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇の邸宅跡地は,五辻殿(いつつじどの)と呼ばれていました。
現在の住所では、京都市上京区五辻通千本東入るにあり、そこには石碑や案内板があります。
(承久の乱勃発)
1221年、後鳥羽上皇は、源氏滅亡のタイミングを見て、全国各地の武士に対して、鎌倉幕府の実質的トップである執権・北条義時追討の院宣(いんぜん:上皇の意思を示す
文書)を発し鎌倉幕府討幕の挙兵を行います。
この戦いは、承久3年に起きたために、承久の乱と呼ばれます。
【承久の乱について書いたブログはココ】
しかし、承久の乱は、初代将軍頼朝の妻・北条政子の演説をもとに1つになった鎌倉
武士の攻撃で朝廷軍は敗北します。
首謀者である後鳥羽上皇が隠岐へ、後鳥羽上皇の息子の順徳上皇は佐渡へ流罪となり
ます。
同じく後鳥羽上皇の息子の土御門上皇は自ら四国高知への流罪を申し出ます。
そして当時の仲恭天皇(後鳥羽上皇の孫)は わずか70日で廃帝になります。
また、後鳥羽上皇や上皇方に着いた貴族や武士が有していた荘園はすべて没収されます。そして上皇方についた国々に東国の御家人を守護や地頭として送り込み、西日本に勢力を広げます。
また、京都にあった平清盛の邸宅地に朝廷の動きを監視する機関の「六波羅探題」を
作ります。
石碑に刻まれた「六波羅探題」の文字が読み取れると思います。
後鳥羽上皇は、後白河法皇の孫で、壇ノ浦で命を落とした安徳天皇の異母弟です。
後鳥羽上皇は、源平合戦の時期の平安末期の1183年に安徳天皇が在位しているにも
かかわら、勢力争いの渦の中、後白河法皇の命で後鳥羽天皇として即位します。
そのため、1183年から1185年までの2年間は、2人の天皇が即位して、2つの年号が
ありました。
また安徳天皇が三種の神器を持っていたため 後鳥羽天皇は、三種の神器がないままに
即位した天皇であるため、形式や儀式を重んじる貴族から「あの人は三種の神器がなくて天皇になったから・・」とかなり陰口をたたかれたそうです。
また「政情不安や自然災害が起きると、あの人は三種の神器がなく即位した天皇だから、やはり・・・」と言われたそうです。
なんともまあ・・・。
そして朝廷の実力者になり、鎌倉幕府を倒そうとしますが戦いにやぶれます。
鎌倉幕府攻撃に失敗した後鳥羽上皇はその後、出家して法皇になり、その直後に隠岐に流されます。
そして、1239年3月28日この地で崩御します。
ちなみに、隠岐は、およそ60年前に後鳥羽上皇の祖父にあたる後白河天皇と保元の乱で争って敗れた崇徳上皇が流罪となった地でもあります。
【隠岐の摩天崖】
(新古今和歌集を作らせた人)
また後鳥羽上皇は、優れた歌人としても有名です。
「新古今和歌集」は、後鳥羽上皇の命によって編まれた勅撰和歌集です。
<<五辻殿への行き方>>
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります】
7月13日、承久の乱の首謀者
なお、2021年(令和年3年)は、
承久の乱が起きて800年目です。