3月7日は、西暦628年に、日本初の女性天皇の推古天皇が崩御した日です。
推古天皇は日本史上初の女性天皇ですが、同時にアジアでも初めての女性君主でした。
推古天皇が在位した時期は、ちょうど日本が様々な改革を進め,
律令国家を目指していた時期でした。
(推古天皇の時代)
色々な本を読むと、推古天皇は甥で摂政の聖徳太子、叔父で大臣の蘇我馬子と協力して政治い、日本という国の改善を行っていたようです。
朝廷の政務を執っていたのは甥の聖徳太子と大臣の蘇我馬子でした。
推古天皇の時代の603年には、家柄ではなく能力で雇用や昇進を決める「冠位十二階」を定められ、その翌年604年には、貴族や官僚の心構えを記述した「十七条憲法」が
定められ、さらに607年には小野妹子を隋に派遣されます。
この時期は律令国家としての国造りを進めていきます。
また太子や馬子と共に仏教を広めることにも力をいれました。
しかし、622年、朝廷の政務を執っていた甥の聖徳太子が49歳で亡くなります。
【聖徳太子が死亡したことを書いたブログはココ】
4年後の626年には、叔父の蘇我馬子が死亡し、息子の蝦夷が大臣に任じられます。
そし2年後の628年3月7日、推古天皇が在位35年3ヶ月、75歳で小墾田宮にて崩御されます。
(当時は一夫多妻や異母兄弟間の結婚が自由)
この時代は、一夫多妻は当たり前でした。
天皇でも豪族でも奥さんが複数いましたし、当然それぞれの奥さんに子供がいました。
また、同母兄弟以外の結婚は認められていました。
つまり母親が違えば、兄弟姉妹間でも結婚ができました。
ですから、人間関係が濃く、そして複雑でした。
ここで推古天皇の家族を見てみます。
推古天皇の父親は第29代の天皇:欽明天皇で、母親は蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛 (そが の きたしひめ)、この人は蘇我馬子の妹。
兄弟を見ると、推古天皇のお兄さんは第31代:用明天皇、第32代:崇峻天皇は異母弟。配偶者は、異母兄弟の第30代天皇:敏達天皇です。
時の権力者・大臣の蘇我馬子は叔父さん、聖徳太子は兄・用明天皇の息子なので甥に
あたります。
先ほども述べましたが、
この時代は、たとえ兄弟であっても母親が違っていれば結婚できたので、推古天皇の
まわりの人間関係はとても濃ゆいです。
今一度整理しますと・・・
さらに、この時代周辺の歴代天皇を挙げますと以下のようになります。
(皇室に入り込んだ蘇我氏)
当時の皇族には最有力豪族の蘇我氏の血が強く入り込んでいます。
例えば
推古天皇の異母弟の崇峻天皇の母親は、蘇我小姉君(蘇我堅塩媛の異母妹)、
聖徳太子の妻は蘇我馬子の娘の刀自古郎女。(蘇我蝦夷の同母妹、川上女の異母姉)
なんとまあ、複雑です。
3月7日は、日本初の女帝であり、日本を律令国家づくりを進めた時期の天皇でもある・推古天皇が崩御した年です。
この時代の状況を知るための、ちょうどいい漫画があります。
山崎涼子さんの「日出国の天子」です。