622年2月22日、
日本初の女帝・推古天皇の甥(兄の子)で
摂政として内外の政治に手腕を発揮した
聖徳太子が49才で死去しました。
馬小屋の前で生まれたことから厩戸皇子とよばれていました。
【推古天皇について書いたブログはここ】
(聖徳太子が生きた時代)
聖徳太子は、日本を天皇中心の集権国家にしようと考え、「冠位十二階」「十七条憲法」を制定し国家の基本理念を示します。
また、制度や法を整備し、さらに大陸と国交を結ぶことで進んだ異国の文化を導入し、仏教興隆にも尽力します。
聖徳太子は20才のときに父の妹の推古天皇のもとで摂政として蘇我馬子と共に天皇を
補佐します。
内政では603年に冠位十二階を制定し、翌年には日本初の成文法の十七条憲法を制定し国の基本理念を示します。
晩年には馬子とともに歴史書の編纂も手がけます。
外交では、607年に小野妹子を隋に派遣、国交を樹立し大陸文化の導入を促進します。
また、仏教を深く信仰して国の宗教とし、607年には法隆寺を建設します。
(血で固める絆)
聖徳太子が摂政だった時代の朝廷の人間関係をみると、天皇が推古天皇、摂政が甥の聖徳太子。
大臣(おおおみ)の蘇我入鹿は、有力豪族で推古天皇の母方のおじさんでした。
また聖徳太子自身をみても(当時は一夫多妻制で、聖徳太子には奥さんが複数いました)、太子の妻は、蘇我馬子の娘で蘇我蝦夷の同母妹の刀自古郎女(とじこのいらつめ)と、推古天皇の娘・菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)で、当時の皇族と豪族の最高権力者双方から奥さんをもらっていたのです。
(法隆寺)
西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、
1993年(平成5年)にはユネスコの世界遺産に登録されました。
近くには、聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、奈良時代に造られた夢殿もあります。
夢殿はバランスが良く美しい建物です。
【法隆寺公式HP】
(聖徳太子2才まいり)
聖徳太子は、色々と聡明な伝説を持つ人です。
その1つとして、2才のときに「東に向かい合唱し南無仏と唱えた」という伝説があります。
聖徳太子にゆかりがある大阪市にある四天王寺では、そんな聖徳太子のご利益を授かり、太子みたいに頭がよくなろうということで毎年2月22日の命日に「2才まいり」という行事が、太子殿で行われます。
(没1400年法要に参加)
2021年(令和3年)は聖徳太子死後1400年目になる年ですが、おっさんも聖徳太子が亡くなったその・2月22日に参拝してきました。
【聖徳太子の二才まいりについて書いたブログはココ】
書いたブログはココ】
【聖徳太子が過ごしたこの時代について書いた一番のお勧めの本】
ということで
2月22日は
聖徳太子がなくなった年です。