6月15日は、
戊辰戦争の混乱期の1868年に幻の「東武天皇」が即位したと言われる日です。
なお、この「東武天皇」に関しては、 蜂須賀家資料、郷右近馨氏資料などに記載されていますが、諸説があり、真偽も定かでないです。
(幕末の混乱期の出来事)
混乱期には、ある勢力が天皇の権威を利用し新しい天皇をたてることがあります。
例えば、
また室町時代には、足利尊氏が後醍醐天皇に対抗し、新しく光明天皇を擁立しました。
このように歴史を振り返ると、自らを正当性化するために、新しく「天皇」を担ぎ出した例はあり、今回紹介する「東武天皇」もその1つだと考えられています。
幕末の戊辰戦争では、長州・薩摩の新政府軍と上野彰義隊・奥羽越列藩同盟などの江戸幕府軍が戦いますが、江戸幕府軍は、明治天皇を擁する新政府軍に朝敵の汚名を着せられます。
朝敵というのは、そうとうなイメージダウンです。
そこで江戸幕府側が、自らの正当性のお墨付きとして、自分たちの天皇を担ぎ出すことを考えます。
ここで幕府側が「幕府側の天皇にしよう」と目をつけたのが、江戸・上野の寛永寺にいた、宮家出身の北白川宮能久親王です。
(ちなみに上野の寛永寺は、江戸幕府より江戸の警備をまかされていた彰義隊が、
立てこもっていた場所でもあります。)
北白川宮能久親王は、宮家の伏見宮邦家親王の王子なので、彼が天皇になることは、
あり得ない話ではありません。
北白川宮能久親王は、幕末最後の天皇・孝明天皇の異母弟で、明治天皇の叔父にあたります。
この北白川宮能久親王が、1868年、6月15日に幕府側の「東武天皇」として即位し、
年号を「大政」にしたという説があります。
(この説は、蜂須賀家資料、郷右近馨氏資料などに記載されています。)
通常、天皇になるには、即位など様々な儀礼や行事があり、また三種の神器を継承する手順が必要です。
しかし東武天皇は、その手順を踏んだうえで即位したのではないようです。
なお、この東武天皇は、即位したのではなく構想だけだったという説もあります。
(ニューヨークタイムズに書かれた2人のミカド)
こちらをご覧下さい。
ニューヨークタイムズ紙が、「日本の北部における内乱で新しいミカドが擁立され、
日本には二人のミカドが存在している」と報じている貴重な資料です。
【上記の新聞は、幕末芸州広島藩研究会広報室さんより情報提供いただきました】
この新聞は、2021年(令和3年)2月11日、建国記念の日に「幕末芸州広島藩
研究会広報室」さんからご紹介いただき、使用および掲載の許可もいただきました。
(幕末芸州広島藩研究会広報室さん、有り難うございます!!)
この記事の英文を読むと当時、日本に2人の帝がいたことを報じています。
なお、今回情報を教えていただいた「幕末芸州広島藩研究会広報室」さんのツイッターですが、これ以外にも実に幕末の興味深い話、しかも一線級の資料に基づいた話が記載されています。
ここは本当に素晴らしいので皆さん、ご覧下さい。↓
また、幕末芸州広島藩研究会広報室さんはFACEBOOkもお持ちでここも貴重な情報が
記載されています。https://www.facebook.com/geisyuhiroshima/
さらに、幕末芸州広島藩研究会広報室さんから、この東武天皇に関して、さらに貴重な情報もいただきました。
それは穂高健一さんが書かれているHP「穂高健一ワールド」の以下の2つの記事です。
穂高先生のHPによると、慶応4年3月15日に東武天皇が年号を「慶応」から「延壽」(えんじゅ)に変えたということです。
それを裏付けるように芸州藩から戊辰戦争に参加した兵士が「延壽元年」と書いている日記が見つかっています。このことから「延壽」という年号は武士層には定着していたという見方ができるかもしれません。
となると我々が知っている「慶応」→「明治」という年号の変化は、実は「慶応」→「延壽」→「明治」というのが正しいのかもしれません・・。
【出典:「穂高健一ワールド」より引用】
そのほか、東武天皇に関する情報として当時のアメリカ公使が母国・アメリカに「幕末の混乱期の今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。」と伝えたと言われています。
あるいはプロパガンダがうまい人がいて、噂を広めて「東武天皇」の既成事実を作り、「東武天皇は外国が認めたんだ」とアピールを考えたのかもしれません。
奥羽越列藩同盟としては、自分たちの陣地に「東武天皇」を迎えることができたので、
その士気が上がったのではないでしょうか?
親王は、新政府軍に降伏し蟄居を命じられます。
歴史に「もしもは」ありませんが、もしかしたら、南北朝時代と同様に日本に2人の
天皇が在位した時代になっていたかもしれませんね。
時代が明治になり、蟄居を解かれドイツに留学し、このとき未亡人と恋に落ち婚約までしますが、のちに破棄します。おやまあ。。
そして1895年(明治28年)、日清戦争で日本が獲得した台湾に近衛師団長として出征します。そして、ここでマラリアにかかり世を去ります。48歳でした。
激動の人生です。
(そのほか)
天皇が2人在位した時期は、平安時代末期の安徳天皇と後鳥羽天皇が同時に即位していたことや、南北朝時代が挙げられます。
【安徳天皇について書いたブログ】
また、即位したにも関わらず、それがあとから、なかったことにされた例は、
【後醍醐天皇により廃帝になった光厳天皇について書いたブログ】