日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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南御堂 割腹事件現場に行ってみた

幕末の1864年2月26日、大阪の南御堂(みなみ みどう)の門前で 2人の元長州藩士が

生首を前に切腹します。

現場となった南御堂(みなみみどう)は、現在の大阪市中央区久太郎町4丁目1-43に

あるお寺で、正式名称は真宗大谷派難波別院(なんば べついん)です。

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現場に残された書状には「周防別府湾沖に停泊中だった薩摩藩の御用商人の船を沈め、船主の大谷仲之進を殺害した。外国と密貿易をしていた大谷の行為は天皇の攘夷に逆らうものであるため、我々が成敗した。この地で割腹する 永井清一 山本誠一郎 」というような内容が書かれていました。

 この死にざまは、「古今未曽有の大忠臣」と絶賛され大阪中の大評判になり,長州藩の評判が急上昇します。

 

長州藩士、薩摩藩の商船「加徳丸」を襲撃)

江戸時代の末期は殺伐たる状況でした。

敵方を簡単に殺害したり、ワナにハメたりということが盛んに行われていました。

特に長州藩薩摩藩は敵対し小競り合いを続けていました。

 

1864年長州藩義勇士隊が、周防国別府浦で薩摩商船の「加徳丸」を襲撃し、薩摩藩御用商人の大谷忠之進を殺害して積み荷とともに舟も焼き払います。

これには当然、薩摩藩が怒ります。

 

長州藩の情報操作戦略)

しかし長州藩は先に手を打ちます。

2週間後の2月26日、大坂の南御堂門前で、大谷の首がさらされ、そばに二人の割腹遺体があったのです。

書状の内容、さらし首、割腹遺体・・・これで世間的には「天皇の意志に背き密貿易をしていた薩摩の船を、天皇への忠誠心あふれる長州藩士の2人が撃し、事件後に、その責任を取り 藩に迷惑をかけないように気を配り脱藩し、自身は見事に割腹自殺を遂げた。」となったわけです。


これは長州藩久坂玄瑞などが中心となって印象操作・情報操作を狙った戦略でした。

薩摩藩が密貿易を行っていたことを世間にバラし薩摩藩のイメージをダウンさせ、

一方で「義憤に駆られて長州藩士の尊皇派の2人が行動し、彼らは、潔く切腹した」という尊皇美談のストーリーを世間に周知し、長州藩の好印象をアピールします。

 

実際に、上方で尊王攘夷派の長州藩の人気は上昇します。

その一方で京都から長州藩を追放し公武合体を図ろうとしていた薩摩藩は密貿易を

暴露され苦しい立場になります。

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(実は2人は・・・)

実は割腹した永井と山本は、加徳丸襲撃事件には加わっていなかったのです。

残された遺書などから、後年、この割腹自殺は政治的に仕組まれた演出だったことが

判明します。

薩摩藩の船が沈められ大谷を殺害した犯人は結局見つかりませんでした。

しかし、それでは長州藩としては加徳丸襲撃事件のオトシマエがつきません。

そこで永井清一と山本誠一郎の2人を犯人に仕立て上げ、「襲撃事件の責任を取り腹を切る」という美談を計画します。

つまり、事件とは無関係の永井清一と山本誠一郎は、長州藩の美談を作るために強引に腹切りをさせたのです。

 

2人は、一度は、腹切りは嫌だと固辞したにもかかわらずそれを無理強いして切腹させたという説もあります。

なかでも山本誠一郎は、南御堂門前でも生への執着があり切腹を躊躇していたところ、介錯人の野村和作に切られ死亡しています。

まあ、なんという後味が悪い事でしょう。

 

おっさんは実際に2人が割腹したと推測される南御堂門前に行きましたが、当時の建物は戦災で消滅したため、事件を物語る石碑などは見つかりませんでした。

門の前でさらし首を掲げられ、割腹自殺もされた南御堂も、たまったもんじゃないでしょう。

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罪のない人を無理やり死に追いやり、その死を美談にでっちあげる・・いやな気分です。
でも、よく調べると実はこの手の話はまだまだあるかもしれません。

 

<<南御堂門前 長州藩士割腹自殺の地への行き方>>

地下鉄御堂筋線本町駅」から南へ徒歩5分

住所: 大阪府大阪市中央区久太郎町4-1-11 南御堂門前