江戸時代後期に
かつ
幕末維新を語るうえで2つの重要な私塾があります。
1つは長州藩で多くの維新の志士を生んだ、山口県萩市にあった松下村塾。
そして、もう1つが大阪にあった適塾です。
適塾は1838年に蘭学者で医師の緒方洪庵が現在の大阪市中央区瓦町三丁目に開きました。
緒方洪庵の像は適塾の隣にあります。書物を開いた姿がいかにも洪庵先生らしいです。
(維新の立役者を数々輩出)
適塾の正式名称は適々斎塾(てきてきさい じゅく)。
これは、創始者の緒方洪庵の号である「適々斎」に由来しています。
この適塾では、大村益次郎、福沢諭吉、橋本佐内、大鳥圭介(蝦夷共和国の陸軍奉行)、高松凌雲(蝦夷共和国の病院長)、医師の所郁太郎、武田甲斐三郎(函館五稜郭の設計および建設者)など幕末から明治維新にかけて、国家形成に大きく活躍した人材を多く輩出しました。
(適塾での学問)
江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた大阪は経済・商業の中心地であり、同時に蘭学が発展していました。
適塾が開校したのは1838年です。当時、日本は鎖国状態でしたが、その後、開国、
戊辰戦争、明治維新と時代の大きな変化を見続け、時代が明治に変わった1868年に
閉鎖します。
適塾が開校した当時、日本は西洋とはオランダとだけ交流をしていて、当時の進んで
いた西洋の文化・風習・学問はオランダを通して身に着けていました。
つまり蘭学は西洋文明を知るための重要な手段でした。
そこで、大阪市東区北浜3丁目にあった「適塾」では、塾生は、塾内にあるオランダ語の蔵書を解読する事に励みました。
その時に頼りになるのが「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた
写本の蘭和辞書でした。
しかし、この本は適塾には1冊しかなく、この辞書が置かれている「ヅーフ部屋」には塾生が学習するため24時間おしかけていたそうです。
(学力至上主義)
適塾は、学力至上主義で、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、
特に上手くできた者には白い三角、上手に訳せると白丸、失敗すると黒丸が名前の上に書かれ、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進むという仕組みだったそうです。
適塾は、高層ビルに囲まれた中に昔の姿のままで残っています。
幕末、維新の志士を輩出した適塾、是非足を運んで下さい。
<<適塾に行くには>>
地下鉄御堂筋線淀屋橋駅8番出口、又は京阪電車淀屋橋駅17番出口より徒歩3分