日露戦争が起きた1904年(明治37年)12月5日、
二百三高地が陥落します。
二百三高地は中国北東部遼東半島の南端にある大連市旅順口区にある海抜203メートルの丘です。
この海抜が203メートルから二百三高地と呼ばれていました。
日露戦争の中での何度かの激しい戦いがありましたが、その1つが二百三高地を巡る
日露両軍の戦いです。
当時中国の旅順港はロシアが租借していて、ここにロシアの旅順艦隊が停泊していました。写真は1904年(明治37年)に撮影された旅順港です。
二百三高地はこのロシアの艦隊が停泊している旅順港を一望できる場所でした。
そのため、この二百三高地は日露戦争でのロシア帝国海軍の基地があった旅順港を攻撃する際の重要なポイントでした。
(バルチック艦隊が来る前に旅順艦隊を叩け)
バルチック艦隊がロシアを出発したという知らせを受けた海軍は、旅順にいるロシアの旅順艦隊を殲滅させようと計画します。そうしないとバルチック艦隊と旅順艦隊が合流し戦うとなった場合には、日本海軍の連合艦隊は戦局が不利になります。
そのため合流前に旅順艦隊を叩く必要があります。
そして御前会議を開き、二百三高地を攻略する事が決定し、1904年(明治38年)11月28日に203高地攻撃を開始します。
「突撃をする日本軍、それに対し要塞から機関銃で撃ってくるロシア軍」という戦いが繰り広げられました。
日本軍は軍服に白いタスキをx文字状に巻いた「白襷隊」を作り何度も突撃しますが、
ことごとくロシアの機関銃の餌食になります。
そこで日本軍は、正面攻撃にくわえ、トンネルを掘っての侵攻、さらに日本の海岸に備え付けていた巨大大砲を持ち込んでの砲撃などを行います。
そして12月5日、ついに二百三高地は陥落し日章旗が翻ります。
(実は観測点としての価値は、なかった二百三高地)
二百三高地占領後に陸軍はすぐに観測点を設置し、ここから旅順港停泊中のロシア旅順艦隊への砲撃を開始し壊滅的打撃を与えたと言われています。
下の写真は頂上から見た旅順港です。
しかし、日露戦争後に陸軍が行った研究では、すでに旅順艦隊のほとんどが黄海海戦での損傷がひどい状態で、さらに旅順港には、これを修理する設備がなく、戦力としては無力化していました。
情報収集及び調査不十分で旅順港に停泊している旅順艦隊は戦力を保持しているという間違った情報を前提にして、二百三高地を攻略したわけです。
つまり多大な犠牲を払った末に攻略した二百三高地ですが、その目的の「旅順艦隊殲滅のための観測点」としての価値は、実際はほとんどなかったといえます。
しかし、これは結果論であり、今だから言えることで、当時の情勢、調査力などを
考えれば仕方がない事です。
(爾霊山)
乃木は漢詩を作っています。
- 爾霊山は𡸴なれども 豈攀じ難からんや
- 男子功名 克艱を期す
- 鉄血山を覆うて 山形改まる
- 万人斉しく仰ぐ 爾霊山
(簡単な訳)
二〇三高地は険しいが、登れないことがあるものか
男子たるもの、功名を立てようと思うなら、
艱難辛苦に打ちかつ覚悟が必要である。
その決意のもとに戦い、砲弾の鉄片と将兵たちの血が山を覆い
二百三高地自体の山の形が変わってしまった。
皆が二百三高地を見るとき、
爾(なんじ)の霊の山、爾霊山であると、敬うであろう。
(乃木大将の武士道)
二百三高地は陥落したものの、その後もロシアの旅順要塞は落ちず、日本軍は要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領します。
これを受けて、ロシア軍旅順要塞司令官ステッセルは降伏し1月5日に日本陸軍の
乃木大将と水師営で会見します。
このとき乃木大将は敗軍の将のステッセルに恥をかかせてはいけないと丁寧に扱い、
異例のふるまいとなる降伏の時の帯剣を許し、武人としての誇りを保たせます。
さらに写真撮影に関しても「敵将(ステッセリ)に失礼ではないか。後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ」と1枚しか写真を撮らせませんでした。
また、ステッセルは敗戦後帰国し死刑を宣告されますが、この時にも乃木大将が助命
運動を行い、彼は死刑から免れます。
(二百三高地髷)
日露戦争後に「二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)」という髪型が日本で流行します。前髪を張り出し、頭頂部に束ねた髪を高くまとめるような女性の髪型です。
・・というわけで
12月5日は二百三高地が陥落した日です。