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関門海峡に面した与次兵衛碑  ~悲しい歴史~

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関門海峡に面した山口県下関市になんとも後味が良くないなあと感じる石碑があります。与次兵衛碑です。

何の変哲もないただの石碑に見えますが、この「与次兵衛碑」には悲しい歴史があります。

この石碑は、1979年(昭和54年)10月「関門就航草創の地」碑とともに建てられました。

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(秀吉が海に投げ出されその責任で切腹) 
1592年、朝鮮出兵のため佐賀県唐津市にある名護屋城に陣を敷いていた豊臣秀吉は、

母親の大政所が急病とのいう知らせを受け、唐津から大阪城まで船で向かうことに

なります。

 

秀吉は細川忠興が手配した「日本丸」という船で大坂に向かいます。

その船頭は、船奉行の明石与次兵衛という人物でした。

唐津から大阪に向かうには関門海峡を通りますが、山口県下関市北九州市の間にあるこの海峡は、海上交通の要衝であると同時に、狭くて潮流が速く、浅瀬や岩礁の多い

難所でもありました。

 

秀吉を乗せた御座船が関門海峡を通過しようとした事件が起きます。

関門海峡には、満潮になると海面下に隠れてしまいますが、干潮になり海水の量が

少なくなると現れる「篠瀬」という大きな岩礁があり関門海峡の最大の難所と言われていました。

 

この篠瀬に秀吉の御座船が座礁して大破し、秀吉は海に投げ出されてしまいます。

秀吉は、先行していた、後の長府藩初代藩主・毛利秀元に救出されますが、船奉行だった明石与次兵衛は責任を取って切腹させられた、あるいは首をはねられ 命を落とします。

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自然の災害による事故ですよ。

明石与次兵衛がいくら船奉行だとしても殺すことはないでしょう?

凄く後味悪い話です。

 

(与次兵衛ヶ碑)

  1600年に豊前国主となった細川忠興は亡くなった明石与次兵衛のために、篠瀬に

慰霊碑を建立して付近を航行する船のための目印としました。

そして、篠瀬はいつしか与次兵衛ヵ瀬と呼ばれるようになりました。

 

碑は与次兵衛碑と呼ばれ、暴風雨や自然災害などで何度も壊れましたが、何度か建て替えられています。

江戸時代の1826年にオランダの医者シーボルトが記した「江戸参府紀行」には、

その碑の事が「記念碑は2メートル50センチ。四角い柱で四面からなるピラミッド型の飾り屋根があり碑文はない。」と書かれています。

彼がオランダに帰国した後に出版した本「Nippon」にはその絵が描かれています↓。

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【与次兵衛ヵ碑にあった掲示板より:シーボルトが書いた与次兵碑】

現在の「与次兵衛碑」は、「関門就航草創の地」碑とともに赤間神宮の対面側の海辺に

あります。

 

<<与次兵衛碑への行き方>>

赤間神宮背にして関門海峡に向かうと道路を挟んですぐです。

JR山陽本線下関駅からサンデン交通バス10分程度で「赤間神宮前」到着。下車すぐ。

山口県下関市阿弥陀寺町

 

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