2月4日は、
切腹をした日です。
年末に主君の仇を討つために吉良邸に集団で押し入り吉良上野介の首をはねた赤穂浪士は、その後、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の
4大名家に御預けとなります。
そして2月4日に赤穂浪士達は、お預かりのそれぞれの大名屋敷で切腹します。
切腹は庭先で行われましたが、その場所には最高の格式である畳が三枚(細川家)、
その他の家の場合は二枚敷かれました。
赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じく東京・品川の泉岳寺に埋葬されます。
(忠臣蔵とは)
「忠臣蔵」。。誰もが一度は聞いたことがあると思いますが、ここでおさらい。
1701年(元禄14年)旧暦3月14日、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、江戸城で吉良義央(上野介)を刀で切りつけました。いわゆる殿中松の廊下です。
吉良は、命を落とすことはありませんでしたが、傷を縫うケガを負いました。
当時の常識では、殿中での刃傷は死罪と決まっていたため、時の将軍・徳川綱吉は、
一方、切り付けられた吉良義央(上野介)は、その翌年の1702年12月14日の深夜に浅野内匠頭長矩の旧臣・大石内蔵助良雄ら47人の赤穂浪士の襲撃を受け、日付が変わった15日未明に殺害されます。62歳でした。
吉良を討ったあと、赤穂浪士達は、その首を持って主君の浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へと向います。
泉岳寺についた一行は亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香します。
吉良の首は、浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて泉岳寺に預けられ、
吉良家へと送り届けられます。
ここで気が付きましたか?吉良邸に押し入ったのは大石内蔵助など47士。つまり47人です。しかし、2月4日に切腹したのは46人。んんん??人数が合いません。一人足りませんね。
その1人は、寺坂吉右衛門信行という侍です。この人は侍と言っても身分が低い足軽でした。
この寺坂さんは、1703年12月14日の吉良邸押し入りでは裏門隊でした。
しかし、討ち入り終了後に、赤穂浪士一行が吉良の首を持ち、主君浅野内匠頭が眠る
泉岳寺に着いたときには、その姿はありませんでした。
これには「討ち入り直前に逃亡した」「討ち入り後に逃げた」「大石が逃がした」などの説があります。
で、寺坂さんは切腹を免れ、46人の赤穂浪士が死亡した後も生き延びます。
そして1747年に83歳で病死し江戸時代末期の慶応年間に泉岳寺の義士墓所に供養墓が
建てられてます。
【東京にある忠臣蔵に関係する史跡】
(吉良上野介の墓がある萬昌院功運寺)
中野区上高田にある萬昌院功運寺には、忠臣蔵で討たれた吉良上野介のお墓があります。
★功運寺では、吉良上野介の命日にあたる12月には吉良公慰霊法要が行われています。
【功運寺について書いたブログはココ】
<<吉良上野介義央の墓:萬昌院功運寺への行き方>>
JR東中野駅徒歩12分
住所:東京都中野区上高田4-14-1 萬昌院功運寺
一方、東京都港区高輪にある 泉岳寺には、赤穂事件で有名な播磨赤穂藩主の浅野長矩(あさの ながのり)と討ち入りをした赤穂浪士が葬られています。
【泉岳寺について書いたブログはココ】
<<泉岳寺への行き方>>
JR高輪ゲートウェイ駅から徒歩10分以内
住所:東京都港区高輪二丁目11番1号
(義士祭に参加)
毎年12月14日周辺には忠臣蔵で亡くなった浪士のために全国のゆかりの寺で
義士祭が行われます。
おっさんは京都と大阪で行われた義士祭に参加したことがあります。
【①京都法住寺】
【2019年(令和元年)京都・法住寺の義士祭りについて書いたブログはココ】
<<法住寺への行き方>>
三十三間堂の前にあります。
おっさんはJR京都駅から歩いて行きました。徒歩15分ほどでした。
【大坂 吉祥寺】
【2020年(令和2年)大阪・吉祥寺の義士祭りについて書いたブログはココ】
<<大阪の吉祥寺への行き方>>
地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩で5分
住所: 大阪府大阪市天王寺区六万体町1-20
・・ということで