大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
最近は日曜日にBSで見て、ストーリーを書いてもう一度流れを把握し
土曜日13時5分からの再放送を見る という流れが定着しています。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(総合、日曜午後8時ほか)第14回「都の義仲」
(4月10日放送)の平均視聴率(世帯)は12.1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)で依然好調でした。
ではストーリーを見ていきましょう。
鎌倉殿の13人 第14回「京の義仲」
(純愛が実り。。)
八重との長年の純愛を実らせた義時、その義時を見送る八重・・・凄くいい感じです。
(木曽義仲の嫡男・義高鎌倉入り)
1183年3月、木曽義仲の嫡男・源義高(11才)が鎌倉にやってきました。大姫の許嫁という形ですが、人質です。
最初、頼朝の妻・政子は「許嫁なんて早い」「どうせ山猿」と非常に失礼な言葉を吐きますが、実際に義高に逢うと彼が持つ品の良さに感嘆し、それには源頼朝さえも驚きます。
そして政子も大姫も義高のことを気に入ります。
(義仲京に入る)
頼朝への信頼の証として嫡男・義高を鎌倉へ送った木曽義仲は、平家に対して挙兵。1883年5月、倶利伽羅峠で平家軍を撃退して京にのぼりました。その軍の中には、叔父の源行家もいました。
義仲軍に追われ、平宗盛率いる平家は、4歳である安徳天皇と三種の神器と共に、京を離れ西国に逃げました。
なお、「三種の神器」とは、皇位継承の記しとして代々の天皇が継承する物で「八咫鏡(やたのかがみ)」、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の3つです。
また「安徳天皇」は平清盛と後白河法皇の孫。平家の血を引いた初の天皇です。その平家系天皇と三種の神器を一緒に持って行ったのだから、平家不在中に他の人が皇位につくことは普通はできません。
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義仲入京の知らせを受け頼朝は「義仲に先を越された」と悔しがります。しかし大江広元は法皇と義仲はいずれ対立すると予測します。
一方、後白河法皇は、比叡山に逃げていました。この頃は各地の寺院も力を持ち僧兵を抱えていました。
義仲は行家と共に後白河法皇と面会します。しかし、義仲は田舎者ゆえ朝廷での作法や礼儀がわからず、無礼を重ね、皇室からはあきれられます。
そして法皇から三種の神器の奪還を命じられます。三種の神器を奪い返すまでこれを・・と自分の刀を差しだし、しかも直接手渡ししようと御所に上がり込もうとする、まさに身の程知らずです。
(鎌倉でなじむ義高)
その頃、鎌倉に預けられた木曽義仲の嫡男・義高は大姫と仲良くなり、また義時や坂東の武士たちとも良好な関係をきずいていました。
義高は義経に「蝉の抜け殻」を集めるのが趣味で信濃の家には512個もあることを伝えます。よく考えれば義高は当時11才くらい、小学5,6年生だから蝉の抜け殻集めが好きなのは理解できます。それを聞いた義経は「あんまり、それ、人に言わない方がいいぞ」と。このへんはギャグでしょうか・・
(恩賞のゆくえ)
平家の都落ちから5日後、今回の平氏を都から追放したことに関して法皇から源氏一門に恩賞が与えらえることになりました。そして鎌倉の御所で義時が頼朝に読み上げます。
勲功第一は、鎌倉殿。第二に、木曽殿、第三に行家殿でした。
実際には都から平家を追い出したのは木曽義仲ですが、勲功第一は鎌倉殿でした。
これには理由がありました。頼朝の知恵袋・大江広元のアイディアで事前に「朝廷のもと東は源氏、西は平氏がおさめるよう定めてはいかがか」と後白河法皇に手紙を送っていたからです。この文で「後白河法皇が平氏源氏双方の上に立ち、物事を決めている、さらに源氏の棟梁がそう提案した」と法皇を持ち上げる事ができるからです。
しかし、実際に平家を京から追放した義仲にとってはこの扱いは面白くありません。
義仲は褒美は気にしていませんでしたが、義仲の家人からは、この扱いに不満があがり、特に義仲の妾である巴御前は怒り心頭です。ドンと叩いて怒りをあらわにします。
義仲は後白河法皇に対し「血を流して戦った家臣のために、誠にふさわしい恩賞をお願いします。」と抗議をします。
それを受け後白河法皇は源頼朝を源氏の棟梁と認めず、今回の恩賞を見送りました。
頼朝は、恩賞がなくなったことで焦り、都から平家を追放した義仲の存在にもいい気がしません。
(義仲軍、京での狼藉)
義仲が連れてきた兵たちは、寄せ集めでしかも田舎者の無礼者で暴力的なので
京の人達から敬遠さえます。そして彼らが京で悪行を働くたびに義仲は頭を悩ませていました。
(二人の天皇が在位)
後白河法皇は、義仲がなかなか平家討伐に動き出さないことから、三種の神器がないままに孫で安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を即位させます。後鳥羽天皇、この時4歳、皇位継承の証、三種の神器がないままの即位は史上初です。
そして三種の神器がないままの即位は後鳥羽天皇に大きな影となります。
この段階で、1183年から平家滅亡の1185年までは、日本史上初めて天皇が2人在位するという期間が生まれます。
後白河法皇は、義仲に「今すぐ京をでて、平家を滅ぼし三種の神器を取り戻せ。」と
命令します。義仲は頼朝を待ち、合流して平家を討ちたいと考えていましたが、法皇の命令で出陣します。
(法皇・頼朝ともに接近)
一方、頼朝も後白河法皇との関係を密にしようと動きます。そして、上洛が遅れていることを詫び、豪華な引き出物をたくさん送りました。
後白河法皇は、頼朝の流罪を解き東海道・東山道の支配権を認めました。この東山道には、義仲の所領である信濃が含まれます。
つまり義仲の領地を義仲が知らない間に頼朝の領地になったのです。
これに納得がいかない義仲は平家との戦いから京に引き返し、後白河法皇に直接会い
真意を確かめようと考えます。
しかし、義仲が京に引き返しことから、「義仲が平家と和睦した」との噂が流れ義仲はますます不利になります。
京に戻った義仲は、法皇と直談判をするために院御所に押し入りますが、そもそも当時の身分で武士が法皇にいきなり会おうとするのは大御法度です。さらに、義仲を振り切ろうとする宮中の側近にケガをさせてしまいます。
この行為を後白河法皇は、謀反と捉え木曽義仲を追い出し、源頼朝に助けを求めます。
(義仲を倒せ)
法皇の依頼を受け、頼朝は出陣し木曽義仲を倒すことを決意します。
政子は戦になり頼朝が勝てば、人質となっている義仲の嫡男・義高、しかもで大姫の
許嫁となっている義高を打ち首にすることになると心配し、頼朝に詰め寄ります。
鎌倉は「源氏同士で争うべきではない」という者と「義仲を討伐しよう」という者とで意見が分かれます。
さらに頼朝の側近・安達盛長は、頼朝が鎌倉を不在にすると奥州の藤原秀衡が侵攻するのではないかと危惧します。
その秀衡が健在なのは呪術で京とから呼び寄せた文覚に宗教の能力がないからだということで、文覚は解任されます。
また、「源氏同士の争い」という御家人達には利益のない戦に坂東武者の三浦義澄、
なかなか物事がうまく進まずイライラする頼朝、ここで知恵袋の大江広元のアイディアで、まずは先発隊を送り、その後、源頼朝が率いる本陣が上洛することにします。
(大将は九郎じゃああ)
その先発隊、誰が大将になるかですが、頼朝は「大将は九郎(義経)じゃあ」と言います。
つまり頼朝は、御家人ではなく異母兄弟である義経を指名したのです。
義経はこの指名に大喜びです。
頼朝は「そういえば二人きりでじっくり話したことはなかった、戦から戻ったら語りつくそう」と義経に話し、義経も「どうやって戦って勝ったのか話せる日を夢見て戦います」と伝えます。
義経は弓矢を放ったが…頼朝が放って当たっていた矢を、はねのけて的の中心にあたります。
ここ、今後の兄弟の行く末をしめしているようです。。
(不穏な動き)
その頃、三浦館では岡崎義実、土肥実平、千葉常胤らが頼朝と袂をわけ、自分たちで
坂東を治めようと話あっていました。
三浦義澄は中立を希望しましたが、最終的には「北条は、助けてやってくれ。それが条件だ。」と言い合意します。
この反頼朝の中に和田義盛と梶原景も、さらにくびになった怪僧・文覚の姿もありました。
(蝉の抜け殻)
義経出立の日、義経は「いつかやろうと取っておいた」と義高に箱いっぱいのセミの
抜け殻を渡します。
源氏同士の争いがはじまることに義時は「こうならないことを望んだのに」と義高に
言います。
すると義高は義経を「不憫だ、父に戦でかなうはずもない、もう二度と会うこともないだろう」といいもらったセミの抜け殻をつぶします。
ここで、蝉の抜け殻をもってくるのがミソ。何の暗示か??
長らく土の中にいて地上に現れたら2週間の命で消えるせみの“はかなさ”と義高の生涯を
だぶらせて表現したのか?蝉の抜け殻のように中身がないことをあらわしたのか。。
何でしょうね?
(おなかが大きな八重)
このとき義時の妻、八重はおなかに赤ちゃんがいました。
義時の家庭はうまくいっているようですね。
(不穏な動きに対し・・)
その夜、義時、源範頼、比企能員、広元、安達盛長らが御所に集まって、三浦館に
集まった反頼朝御家人の名前をあげていきます。
この反頼朝集団に統率力がある上総広常が加勢したら、もう勝負が決まります。
つまりが上総広常がどちら側につくかが最重要でした。
義時は、上総広常に会い、三浦家に集まる人達の誘いに乗ってほしいと伝えます。??なんで反対グループに協力するのか??これには頼朝の智恵袋・大江広元の考えがありました。
・・・というところで第14話「京の義仲」は終了!!
うーん反対勢力はどう動くのか。。気になりますねええ
【鎌倉殿の13人公式HPはココ!!】