戦国時代、織田信長の城下町として栄えた滋賀県の安土。現在、安土駅南口には、近代相撲発祥の地を記念して、
白御影石で作られた2人の力士が取り組みをしている石像が設置されています。
(相撲好きの信長)
信長の相撲好きは有名らしく、当時、日本に来日していたカトリック教徒のルイス・フロイスが「日本史」という自信の書物に、「信長は身分の上下に関わらず裸の男たちを競い合わせる趣味があった」と記しています。これ相撲の事ですね。
そして、信長の人生を記した信長公記には、信長の相撲好きがより詳しく書かれています。
それによると「室町時代後期の1570年、3月3日、織田信長は近江国中から相撲取りを集めます。そして常楽寺で相撲を取らせました。」とあります。
信長は、元亀元(1570)年から天正9(1581)年までの間、安土の常楽寺や安土城で
相撲大会を開催しています。そこで勝った者を家臣として召し抱えることもあったそうで、その1人は1582年の本能寺の変で命を落としています。
(常楽寺は今はない)
信長が相撲を観覧した常楽寺。しかし、現在は「常楽寺」という寺はありません。
安土駅の北西にある常浜水辺公園付近が常楽寺跡とされます。その後、安土に改称されたようで、安土町常楽寺という地名だけが残っています。
(下の写真は、安土駅の力士像にあった案内板ですが、水平に撮影すると鎖がどうしてもうつってしまうので、このような角度で撮影しました。見にくくてすみません。)
(当時の相撲)
ちなみに当時の相撲は、押したり、投げ飛ばす以外に、突きや蹴りなどの打撃技もあったそうです。
また当初は土俵がなく、力士や観客が周囲を囲んで円をつくり、その中で相撲をとるというスタイルで、力士がわんこそばのように、次から次へと円の中に入って相撲を始めていたそうです。
そのため円の中に5人や6人の力士が同時に戦う、同時進行状態でした。
これでは混沌としたカオス状態であり、誰が勝っているか誰が負ているかの区別がつきにくいためかない、ジャッジ係として信長が「行司」という係を作ったと言われています。
そういえば、この力士像には土俵がありませんねえ。
この力士像があるあたりには、かつて相撲櫓と土俵がありましたが2014年(平成26年)に撤去されています。
<<力士像への行き方>>
JR安土駅下車すぐ南口です
安土城を見に行ったら、この相撲像も是非ご覧ください。