江戸時代の1653年6月20日、
神田上水、千川上水とともに
江戸三上水と呼ばれる玉川上水が、
この日完成しました。
(玉川上水とは)
「玉川上水」は江戸の街で暮らす人々に必要な水を供給する目的で江戸時代に作られた人口の水路です。
徳川家康が1603年に征夷大将軍になり江戸幕府を開き、江戸が将軍のおひざ元と言うことで文化・政治・経済などの中心になります。すると人々が集中して江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかります。
飲み水、風呂の水、洗いの水。。。水は色々な用途があります。そのため江戸で生活
する人が増えると水が不足します。
3代将軍家光の時代には、今までの水ではその量が不足したため新しく生活に必要な水を獲得するルート開発するよう迫られます。
そこで江戸幕府は、江戸の町への飲料水など生活に必要な水を供給するために、人工的に水路を作りました。その1つが玉川上水です。
(玉川上水の歴史)
1653年4月4日、多摩の羽村から四谷までの全長43kmの玉川上水の露天掘り工事が始まります。
玉川上水の工事では玉川兄弟(庄右衛門と清右衛門)が指揮をとりました。
工事費用は、幕府からもらった金額では足らず、最後は玉川兄弟が家屋敷を売り、資材を投げ出し完成しました。
工事開始からわずか8か月で後羽村取水口から四谷大木戸までの水路が完成しました。
全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩い傾斜で水を運びます。
翌年の11月には江戸の街への通水が開始されます。
玉川上水は、多摩川の水を羽村堰で取り入れ、四谷大木戸までのおよそ40キロメートルを通水し、大木戸からは暗渠で四谷見付へ送り、そこで二に分けられ、江戸城と江戸市中に給水しました。
この上水は、明治時代に水道が整備されるまで、約250年の間、首都江戸そして東京の人々の生活に重要な生活用水であるとともに、武蔵野の農地にも水を供給し農業生産にも貢献しました。
【1899年(明治32年)刊行「旅の家つと、第12」より:デジタル国会図書館より転載】
(玉川上水沿いを歩く)
おっさんはかつて玉川上水沿いを上流に向かって歩いたことがあります。コースは東京の武蔵野市→三鷹市→小金井市→小平市→立川市です。
【前回、玉川上水沿いを、およそ5時間かけて歩いた時のブログはここです】
玉川上水横の道は森林が生い茂り、木々に囲まれ緑が多く、歩くには気分がいいものです。柵の左側に玉川上水が流れていました。
(道中の見どころ)
この玉川上水は、国指定の史跡です。道の途中に見どころが数か所ありました。
(境水衛所跡)
江戸の街に水を確保するために、玉川上水には数か所、水衛所という水の番人が常駐し、水の量や環境整備などをしていた場所がありました。
その1つが境水衛所でした。
(小金井の桜)
この玉川上水沿いには桜の木が多く植えられました。
特に「小金井の桜」は有名で江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑わいを見せ1924 年(大正13)に国の名勝に指定されました。
【東京都水道局公式HPの玉川上水記事】
かつて江戸の水事情を支えた上水の1つ、玉川上水は
6月20日に完成しました。