607年7月3日、
小野妹子を乗せた船が隋に向かいます。
遣隋使です。
(進んだ文化を学ぶため)
この時代、隋は文化や技術、制度が発達した国であり、倭国は、この隋から色々な事を学ぼうという意図がありました。
当時は、倭国であり「日本」という名称が使われるようになったのは、遣唐使が始まって以降です。
遣隋使のルートは、以下の通りです。
隋に向かう船が大阪の住吉大社のちかくにあった住吉津から船出し、大阪湾に入り、
難波津をへて瀬戸内海から九州筑紫へ行き、ここから玄界灘を渡り、朝鮮半島沿いに
当時は、航海術も造船技術も今とは比べものにならない時代です。
荒波を乗り越え中国大陸に行くのは大変な事だったと思われます。
(607年7月3日)
特に607年7月3日の遣隋使は、「日出処の天子…」と書いた文書を携え隋に行きます。
このとき倭国から煬帝に宛てた国書が、有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていて、これを見た隋帝は激怒します。
煬帝が激怒した理由は、中華思想では、天子は中国の皇帝ただ1人であり、倭国のような辺境の地の王が「天子」を名乗ったことに対し、「まかりならん!無礼なり!」と
怒ったわけです。
(なくした国書)
小野妹子の遣隋使は、翌年608年、答礼使(とうれいし)として隋の官史裴世清をともない帰国します。
帰国したとき、小野妹子が隋の煬帝からの返書を百済人に略奪されたと主張します。
つまり煬帝の国書をなくしたのです。
朝廷の豪族たちは、「隋の皇帝の国書の紛失という重大な過失を犯した妹子を流刑にせよ」と大騒ぎします。
しかし、結局、小野妹子は流刑を免れます。
この返書、実は「陽出する処の天子・・・」の日本側の文書に立腹した煬帝の怒りに
満ちた文書だったので、小野妹子が隠蔽したという説もあります。
(翌年の手紙は・・)
この裴世清の帰国の際に小野妹子が再度派遣されます。
前回同様、小野妹子が「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」の書き出し(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)の国書を携行しています。
この国書は「謹みて白す。具(つぶさ)ならず」と締めてあり、現代の手紙の「敬白」「謹白」といった言葉が飛鳥時代から受け継がれてきていることがわかります。
そして、前回の「日出ずる処の天子・・・」の文書と違い身分が上の人に差し出すへりくだった形式になっています。
この遣隋使の時には、高向玄理、南淵請安 などを留学生として連れていきます。彼らは隋の滅亡と唐建国に遭遇し、また中国の進んだ文化や技術風習などを吸収し、帰国後には大化の改新などで倭国の改革に貢献します。
結局、小野妹子は607年と608年の2回隋に渡っています。
そして614年、最後の遣隋使として犬上御田鍬を隋に派遣しています。
(遣隋使の最初は小野妹子じゃない?!)
日本書紀で遣隋使が記述されているのは607年が最初ですが、中国側の記録である隋書東夷伝ではこれは2度目で、最初は600年とされています。
ただ、この600年に隋に派遣した団体がお粗末すぎたので、日本側の記録から消えたのではないかと言う説があります。
・・・・ということで
7月3日は、
小野妹子を隋に派遣した日です。