日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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唐新羅連合軍の侵入を防ぐために築かれた水城

飛鳥時代に、
新羅連合軍の日本侵攻を防ぐために
九州に長い土塁が築かれました。
日本最古の城・水城(みずき)です。


(水城とは)

水城(みずき)は、福岡県の太宰府市大野城市春日市に築かれた、日本の古代の城で、国の特別史跡に指定されています。

水城は記録に残る日本最古の城で、「日本書紀」には、「筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へ、名づけて水城(みずき)と曰う」と、記載されています。
水城には「城」の字がつていますが天守閣のあるお城ではありません。
昔の城です。

 

(敵の侵入を防ぐため)

663年10月、白村江の戦いがあり日本は唐・新羅軍に敗れます。そして日本は彼らが
日本に侵攻してくるのではと警戒します。
そのため、敗戦の1年後に唐・新羅軍が博多湾から上陸し内陸部に侵攻するのを防ぐために福岡平野が一番狭くなる場所に水城を築きました。
下は太宰府市にある九州国立博物館に展示されていた 水城工事風景の模型です。


下の図を御覧下さい。上にある海は博多湾です。
この博多湾から上陸した敵が内陸部に侵攻したとき、それを防ぐために大野城と小水城の間の平野部に水城を作りました。

【水城案内版より】

(長い土塁)

水城は全長は約1.2km、高さ9m、基底部の幅が約80mの二段構造の土塁です。土塁の両側には濠が備えられ、東西の端には東門と西門がありました。

【水城案内版より】

 

下の写真が土塁です。高さ9メートルです。

 

(東門を訪問)

今回訪れたのは水城の東門があった場所です。
ここは官道が通っていて現在の博多と太宰府を結んでいました。官道は今でも道路が
通っています。ここに門を作っていました。

 
(水城東門跡)

東門があった場所には今でも当時の物が残っていました。
わかりにくいのですが、礎石がありました。

案内版の説明がわかりやすいです。
ただし、下の図の③の丸い礎石は草に覆われていました。

東門がこうして置かれていたのではという予想図がありました。
これはわかりやすいですね。

土塁の間に官道が走り、ここに東門がありました。

水城を上に登り、みるとその大きさがわかります。

 

高さ9メートルの土塁。近くに立っている大人の人と比較するとその大きさがわかると思います。
ブルドーザーがない時代に良くこんなものを造ったもんです!!

土塁は、下成土塁と上成土塁とに分かれます。

下成土塁は幅約80メートルで土塁の基底部となり、上成土塁はその上の高さ7から10メートル、幅約25メートルの部分です。

 

土塁は、白色の砂質土と赤茶色の粘質土を交互に薄く積んで硬く突き締めながら造る「版築(はんちく)」という工法による積み土で造られています。
また、地盤が軟らかい部分に枝葉を敷き並べながら積み土する「敷粗朶(しきそだ)」工法と呼ばれる土木技術もみられます。

【水城案内版より】

 

白村江の敗戦以後、唐・新羅軍の侵攻はなくこの水城は使用されませんでした、しかし奈良時代中期の765年に新羅と緊張状態になり改修が行われています。

 

(水城館はおすすめ)

 

東門跡すぐ近くの土塁をくりぬき水城の資料をそろえ水城館があります。ここは無料で利用できます。お勧めです。

【古都太宰府保存協会HP 水城館】

 

<<水城東門への行き方>>
太宰府天満宮から徒歩1時間
西鉄下大利駅から徒歩10分
住所:福岡県太宰府市国分2-17-10

 

今から1300年以上前に、
外国の侵攻を防ぐために
このような壮大な防御が造られたんですねえ