大河ドラマ「どうする家康」第20話のタイトルは
「岡崎クーデター」。視聴率は10.4%。前回から1.1%減
それは、あらすじを見て行きます。
(岡崎東方之衆)
1575年、武田勝頼は、信玄の3回忌を終えました。
息子・武田勝頼は三河を取ることを画策し、正攻法の戦いとは別に水面化でも工作を行っていました。それは家康陣の内部に協力者を作り、内部からの崩壊を起こすのです。
戦国時代はこのようなことが各地で起きたと思います。
そして、岡崎の家康陣では、その勝頼の仕掛けた組織「岡崎東方之衆」が血判状を作り、その絆を深めていました。こういうのって怖いですよね・・・
(家康病に倒れる)
家康は、危機が迫る岡崎に駆けつけようとしますが、高熱を出して倒れてしまいます。病床の家康は、勝頼の中には信玄が生きているので用心が必要だと感じていました。
一方、勝頼を迎え撃つ岡崎では、家康の長男・松平信康が戦準備を行い、近くには妻で織田信長の娘の五徳が正座していました。そこに、信康の母・瀬名と妹・亀がやってきました。
岡崎の信康は、「岡崎に松平信康ありと勝頼に思い知らせてやる」と気合十分で意気込みます。
しかし、そんな状況なのに五徳は、「家康は病に倒れているし、頼りにならない」と言い水を差してしまいます。
それを聞いた信康は、「父上は、遠江のことで忙しいのです。五徳、そなたの父はあれこれ指示は出すが、助けをよこさず、頼りにならぬがな」と言い返します。
すると五徳は「わが父は、天下人としての役目があるのです。侮辱するなら、父上に言います。」と言い2人は喧嘩。
軽はずみな発言をした五徳が悪いんですが。。信長の娘と言う事で威張っているんですね。
このやりとり、実は後に起こる非常に大きな事件の伏線の1つです。
2人のやり取りに、近くにいた瀬名は「やめなされ。我らは心を一つにする時じゃ。信康、そなたには殿が残してくださった家臣が大勢おる。一丸となれば、かなわなう敵はおりませぬ。」と言い、その場を収めます。
そして信康は、家臣たちを集めて「これより足助城にむかう」と宣言し、出陣します。
(織田信長の娘じゃ。無礼者!)
信康は気合十分で出陣しましたが、そのわずか2日後、信康軍は戦いに敗れ、戻ってきました。負け戦です。
傷を負った者や負傷した者たちが次々と運び込まれ、瀬名と亀はその看護や手当てに奔走します。
負傷兵の1人1人に優しく看護をする瀬名。負傷兵の中には山田八蔵の姿もありました。瀬名は、負傷し泥や血で汚れた姿の八蔵に対し母親のように手厚く看護しました。
このように看護に従事する瀬名や亀ですが、信康の妻・五徳は何もせずに立っているだけです。
見かねた瀬名が五徳に手伝うように伝えると、五徳は、なんと「このような汚い男たちに触れることなど、できませぬ。」と言い放ちます。
周りに負傷した兵士たちが聞いているのにこの発言!!そりゃまずいでしょ??
それを聞いた瀬名は怒り「汚いとは何事か。三河を守るために、戦っている者たちぞ。そなたも三河の女子であろう。」と言いますが、五徳は「私は、織田信長の娘じゃ。無礼者。」と言い去っていきました。
五徳の立場からすれば、徳川家臣団が見ている目の前で瀬名に大声で叱られ恥をかかせられたわけですからプライドが高い五徳には、大きなシコリになったことは否めません。
これも後に起こる非常に大きな事件の伏線の1つです。
(手の内を読まれている??)
数正は、こちらの動きが読まれてたようで、手痛くやられましたと説明します。
その頃、浜松城では戦況が伝えられていました。
武田勝頼の勢いは激しく、翌日には岡崎を攻める勢いです。
(指令)
その頃、巫女・千代が岡崎を歩いていました。そして小さな祠に文を置きました。
しばらくすると、武士が一人やってきました。大岡弥四郎です。弥四郎は、歩き巫女が置いた文を読み、そしてその紙を破り捨てました。この文は伝令文でした。
その晩、岡崎領内にある屋敷の中に30人ほどの人が集まりました。その席で大岡弥四郎は、勝頼の指示通り今夜、信康と築山殿を殺して武田勝頼を迎え入れるというのです。
その席には30人ほど集まって、瀬名の看護を受けた山田八蔵の姿もありました。八蔵は自分を大事にしてくれた瀬名への恩義を感じていたので、瀬名を討ってよいのかどうか・・心が揺らいでいました。
(謀反の夜)
そして迎えた謀反の夜。
弥四郎たち謀反軍は、瀬名や信康が寝ているところを襲撃します。しかし寝ていたのは家臣たちであり、そこにいるはずの信康と築山殿ではありませんでした。さらに待ち構えていた兵士たちに返り討ちにされ謀反は失敗。弥四郎は生け捕りされます。
失敗に終わった謀反。その計画を漏らしたのは山田八蔵でした。
八蔵は、恩義を受けた瀬名を裏切ることはできず、泣いていたところを、瀬名に見つかり、告白したのでした。
囚われの身となった弥四郎は、「仕方なく、つい武田の口車にのせられてしまいました。悔いておりますと言えば、満足でございますか。武田の方が優勢だから、そっちについた。沈む船に居続けるのは愚かである。
ずーっと戦ばかりさせられている。忠義だ、恩だという大義名分も死に行かせるためのこと。戦なんかせずに酒をたらふく飲んだり、いい女を抱いたりしていたい。それがみんなの本音だ」と言います。
終わりのない戦ばかりの日々、しかも死と隣り合わせ・・・こんな生活の連続では、
やってられない・・と言うのです。
この様子を見た五徳は「謀反の件は信長に報告する。謀反人たちはひどいやり方で処罰すべきだ」と言います。まあ、なんと気性が激しい事・・・。
謀反を指示した勝頼たちは、弥四郎から謀反成功の時に上げる予定の のろしがないので、謀反失敗を知ります。そして、勝頼は浜松城の方に向かいました。
(虎松)
浜松城では、岡崎の出来事が報告されていました。
武田が浜松に向かっていることを知った家康は、吉田城で迎え討つために病の身ながら出陣しようとします。
そして井伊虎松を呼びます。この虎松、かつて浜松に入った家康を女装し暗殺しようとし、捕らえらえた時には、物凄い言葉で家康を罵倒した少年です。
この家康と虎松のやり取りも突っ込み所が複数ありました。
では、見て行きましょう。
家康は虎松に、なぜ徳川に寝返ったのかと問います。
すると虎松は「幼い頃から、民が悲しみ、苦しむ姿だけを見てきたが、殿のことを話すときは皆楽しそうに笑っている。民を恐れさせる殿様より笑顔にさせる殿様のほうがずっといい。殿にこの地を守ってほしい、皆心の底ではそう思っているのではないか。」と。
でも、これって冷静に聞くと民衆が殿を尊敬し敬うというよりは、軽んじてバカにしているのではないかとも感じます。つまり家康が優しく民衆を思いやる君主と言うよりも、情けなくて弱弱しいからこのような感情を抱かせるのではないかと?
そう考えると生きるか死ぬかの戦国時代の城主として、家康は、これで良いものか悪いものか・・・
そして虎松はさらに本音も付け加えます。
「凄い家臣たちがいる武田では出世できそうにないが、徳川の家臣はへんちくりんなのばかり。由緒正しい家臣がいてもいいのではないか。たとえば井伊家のおいらとか」
まあ、なんということか!!
普通に考えて自分が信頼する家臣を若造に へんちくりんなのばかり と言われて、いっさい反論しない家康もどうかしています。
結局、家康は、この虎松が気に入り自分のそばに付くようにと命じます。
(武田軍の退却??)
吉田城で、家康、酒井忠次、鳥居元忠が武田軍を待ち構えている中、その武田軍がなぜか引き揚げていきます。
家康の家臣団は、この退却は、籠城している家康たちを誘い出すための作戦であろうと推察します。
武田軍は、武田と徳川の境界にある長篠に、おびきだそうとしていたのです。
(対峙)
一方、岡崎城で意外な動きが起きていました。
瀬名は、八蔵に、武田の歩き巫女・千代への文を、連絡場所の祠に置いてくるように頼みます。そして、その文を見た千代は、築山にやってきて、瀬名と対面します。
瀬名は「またお会いできてうれしい。お千代さん。昔、お寺で楽しい踊りを」と言います。
そう、この2人、瀬名が一向宗の拠点・本證寺に潜入した時に逢っています。
瀬名にあった千代は「私を取り込もうなんてできると思う?」と言います。
すると瀬名は笑顔で「こたびもあなたではないかと思っておりました」「家臣に手出しをされるくらいなら、私がお相手をしようと思って。お友達になりましょう」と意味深な笑みを浮かべたところで終了します。この2人の女性の静かな戦い。。。怖い・・
しかし、瀬名はなぜ千代が絡んでいることを知ったのでしょうか??不思議。。
ちなみにこの後は1575年に「長篠・設楽ヶ原の戦い」、そして1579年に「築山殿事件」が起きます。
(おっさんの推察)
今回、何度もあった信康・瀬名と五徳との感情的対立、そして後半の千代と瀬名の対面。
この流れから推測すると、瀬名に対し良い感情を持っていない五徳、瀬名が武田方の千代と会っているのを「瀬名が武田と内通している」と感じて信長に密告し、あの築山殿事件になるのではないでしょうか??