ガダルカナル島。。
南太平洋に浮かぶイギリス領ソロモン諸島の1つで太平洋戦争の激戦地の1つです。
【ガダルカナル島:グーグルマップより】
(日米激戦の地・ガダルカナル島)
ガダルカナル島では1942年(昭和17年)8月から翌年の2月まで日本軍とアメリカ軍との激しい戦いが繰り広げられました。
圧倒的な物量に勝るアメリカ軍に対し日本軍は、補給不足から困難をきわめ、弾薬や
医療は底を付き、多くの兵士が玉砕し戦死・餓死者は約2万5千人に上りました。
ガダルカナル島は、短縮してガ島と呼ばれますが、
日本兵が、この島で食糧不足になり飢餓に苦しんだために飢餓の「餓」を取って
餓島とも呼ばれました。
(2月1日ケ号作戦開始)
戦局が不利になった日本は、ガダルカナル島からの撤退を計画します。
そうなると島にいる兵隊さんを無事撤収する必要があります。
このガダルカナル島撤収作戦は「ケ号作戦」と呼ばれ、これは、捲土重来から由来しているとされています。
「捲土重来」つまり「また戻ってくる」と言う意味があります。ですから当時は
「撤退」ではなく「転進」と表現していました。
ケ号作戦は1942年(昭和17年)12月31日に開かれた御前会議で決定され、翌年2月に
実行されました。
アメリカ軍には"日本軍による総攻撃がある"と思わせるように陽動部隊が結成され、
偽電文を発信したり潜水艦による偽装砲撃を行うなどカモフラージュ工作も行われました。
(三次に渡るガ島撤収作戦)
第一次撤収は2月1日9時30分、第一次撤収部隊がショートランド泊地から出撃します。
ガダルカナル島に到着した第一次撤収部隊は、同日夜、海軍兵士250名、陸軍兵士5164名を収容し2月2日午前にブーゲンビル島エベレンタに帰還します。
2度目の撤収は2日後に行われガダルカナル島に到着した第二次撤収部隊が、海軍兵士519名、陸軍兵士4458名を収容しブーゲンビル島エベレンタに帰還します。
ガダルカナル島最後の撤収となる第三次撤退は2月7日、18隻によって行われました。
第三次撤収部隊がショートランド泊地を出撃すると、ガダルカナル島にて海軍兵士25名、陸軍兵士2224名を収容、またラッセル諸島にて計390名を収容し、無事エベレンタに帰還します。 アメリカが日本軍の撤退に気付いたのは、2月8日の朝だといいます。
いずれの撤収時にも米軍の激しい攻撃を受けますが、それを振り切り撤収が完了します。
(ガダルカナル島戦士之碑)
福岡県福岡市中央区の谷公園。ここはかつて陸軍省が管轄する「福岡陸軍墓地」で、
この地には、日清戦役以降の戦病死者等の墓が建てられています。
その墓地の一角に、ガダルカナル島戦士之碑があります。
ガダルカナル島での戦死・餓死者は約2万5千人に上りますが、このうち、福岡歩兵第124連隊の将兵3,179名が犠牲になっています。
1973年(昭和49年)3月に、亡くなった方の死を悼み、ガ島戦士之碑がガ島会によって建立されました。
石の玉・・。
この石の意味を福岡市役所に電話で尋ねましたが不明とのことでした。
なんか意味があると思いますが・・・
その石の球の前に置かれた透明の箱状の物。
桜の花があり「靖國の櫻」と書かれていました。
石碑の左には碑文が刻まれていました。
碑文
昭和十七年八月三十日より翌十八年二月七日に至る間
英領ソロモン群島ガダルカナル島ルンガ飛行場の争奪をめぐる米軍との戦いに
食なく弾薬尽きて尚勇戦し要地アウフテン山を
よく死守した福岡歩兵第百二十四連隊の将兵三千百七十九柱の霊
此の地に静まる
昭和四十九年三月吉日建立 ガ島会
(ガ島で兄を失った方に偶然遭遇し話を伺う)
ちょうどケ号作戦が行われていた時期の2月吉日、ガダルカナル島慰霊碑を参拝していたところ偶然、ご婦人が参拝されていました。
そこでお話を伺ったところ、この方は近所にお住まいで実のお兄さんがガダルカナル島で銃で撃たれ亡くなられたそうで、毎週参拝に来ているとのことでした。
<<ガ島慰霊碑への行き方>>
住所:福岡県福岡市中央区谷2丁目11谷公園内
太平洋のガダルカナル島で激戦が繰り広げられ、またこの地で
無念の死となった先輩方のことを忘れてはいけません。