日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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8月1日 日本海軍の撃墜王 イエローファイター 菅野直(かんの なおし)戦死

2週間後に終戦となる1945年(昭和20年)8月1日、
イエローファイターと恐れられた
日本海軍のエースパイロットで撃墜王
菅野直(かんの なおし)が戦死します。

菅野直は、1921年(大正10年)朝鮮半島の竜口生まれ。日本海軍の戦闘機搭乗員で、
海軍第343航空隊「剣(つるぎ)」の戦闘301飛行隊、通称「新選組」の隊長でした。

(イエローファイター)
菅野直は、1938年(昭和13年)に海軍兵学校へ進みます(70期)。
1944年(昭和19年)7月、23歳のときに新たに設立された201海軍航空隊の戦闘306飛行隊の分隊長になります。
やがてヤップ島に移動し、ここで連日、敵のB24爆撃機を撃墜し、その功績で、第一航空艦隊司令長官から感状を受けています。

この時、菅野は、敵の1000m上空から背転し、真っ逆さまに垂直に敵機の真上から防禦砲火の死角をついて攻撃し、敵の翼の前をすり抜けるという戦法です。この方法で列機と共に何機も撃墜したことから、菅野の機体の黄色のストライプ模様は、米軍パイロット達の間で「イエローファイター」と呼ばれ怖れられました。

(数々の武勇伝)
この菅野さん、豪快な方で数々の武勇伝があります。
・飛行学生時代に、同期が垂直旋回を訓練中の頃に菅野は、教科書を読んで勝手に宙返りを覚えた。
・フィリピンで機銃弾を受けたときに麻酔無しで摘出手術を受けた。
・受領した零戦をフィリピンへ持ち帰る際、間違えて別の基地に着陸したため、そこの司令に叱責された。そのため、菅野はエンジンを全開にしてプロペラの風圧で指揮所のテントを吹き飛ばして去って行った。
・搭乗員宿舎で酒を飲んでいる最中に、司令部から「やかましい」と苦情が来たとき、「明日の命も分からない搭乗員に何を言う」と怒鳴り、黙らせた。
ルバング島に不時着したとき、原住民に「日本のプリンスだ」と勝手に言い、救出が来るまで王様のように過ごした。

・・・とまあ豪快というか・・・・。

新選組隊長)
菅野は数々の豪快な武勇伝を残すものの、その腕は確かです。
1944年(昭和19年)末、菅野は内地に召還され、各部隊から集めた歴戦のパイロットで作られた第343海軍航空隊の戦闘301飛行隊の隊長をつとめます。
この戦闘301飛行隊には、皇族から特別に「新選組」の隊名が与えられ、第343航空隊は「剣」の異称を持ちます。昭和20年(1945)3月19日、343空は初陣を迎え日本側の記録では52機撃墜しています。
その後も菅野率いる「新選組」の活躍し、4月12日の喜界島上空の空戦では敵20機を撃墜しています。
下の写真は、343空時代の菅野の愛機、A15号機です。

(8月1日)
8月1日、菅野たちは 敵爆撃機迎撃に向かいます。このとき二番機・堀光雄飛曹長の無線に「我、筒内爆発ス ワレ、菅野一番」との入電がありました。
これを聞いた堀は、菅野機を見つけ、その左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見します。
二番機の堀が心配して菅野機に寄り添いますが、菅野は「俺に構わず敵に向かえ」と手まねで示します。堀がそれでも護衛から離れないため菅野は拳を突き付けた(殴る真似?)ので、堀は戦闘空域に戻りました。
空戦後、「全機集マレ」という菅野の声を受信します。菅野は無事だったと思ったものの、「諸君ノ協力ニ感謝ス」の声を最後に菅野の音声は絶えます。
堀は菅野がいると思われる空域へ向かいますが、菅野機は空のどこにも見つかりません。

その後、捜索を行いますが菅野機が見つかることはありませんでした。
通信の内容や米軍側の記録から、機銃が暴発したことで操縦不可能に陥って墜落したものと考えられていますが、菅野の消息は不明のままです。
そして9月20日に「8月1日に戦死」と正式に認定されました。享年23。

総撃墜数は、南方戦線において個人撃墜破30機、343空において個人撃墜18機・協同撃墜24機を記録、計72機撃墜を全軍布告されました。

 

 

・・ということで 

8月1日は日本海軍の撃墜王
イエローファイター・菅野直が戦死した日です