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8月11日 新潟市が原爆疎開を始める(新潟知事が出した「知事布告」)

(出典:総務省ホームページ

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.ht ml)

 

上の写真は長崎に原爆が投下された2日後の8月11日に、
「次に新型爆弾が落とされるのは新潟市かもしれない」と新潟知事が判断し強制疎開を命じた「知事布告」です。
いわゆる原爆疎開です。

(次は新潟市かも??)

1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に2個目の新型爆弾=原子爆弾が投下されました。
このとき、新潟県では次の新型爆弾が投下されるのは新潟市かもしれないと考えました。

当時の新潟市の人口は約17万人で、新潟港は朝鮮半島へ物資を輸送する重要な拠点港でした。

(原爆投下候補の都市の1つに)
新潟市は、ぎりぎりまで原爆投下の候補都市の1つに数えられていました。
ポツダム宣言が公表される前日の7月25日の時点では、アメリカは広島・小倉・新潟・長崎の4つの都市を原爆投下候補としていました。
7月20日、米軍は原爆投下候補地各地に、投下訓練のためにパンプキン爆弾と呼ばれる模擬原爆を落としています。
新潟では、当日午前8時13分、新潟市の近くにある長岡市にパンプキン爆弾が1発投下されています。こうして米軍は着々と原爆投下にむけての準備を進めていきます。

(広島、長崎・・次は新潟??)
一方、新潟市でも広島・長崎の次に原子爆弾が落とされるのは新潟市ではないかと感じていました。原子爆弾が投下された広島市長崎市が、過去にほとんど空襲をほとんど受けていなかった都市であるという点に注目したのです。
新潟市の近くにある長岡市が8月1日にB29の大空襲で市街地の80%が焼失する大空襲を受けますが、いまだに新潟市は大規模な空襲をほとんど受けていませんでした。

このような状況から、次に原子爆弾が落とされるのは新潟市ではないかと考えます。実際、新潟市民にも、「次のピカドン(原爆の事)は新潟かも」という恐怖が広がっていました。
8月10日午後、新潟県幹部たちが緊急会議を開きます。この会議は、翌11日未明に終了しました。

(緊急疎開の知事布告発令)
そして畠田昌福新潟県知事が新潟市民を緊急疎開させる「知事布告」を発令します。
布告には、「新型爆弾ハ我国未被害都市トシテ僅ニ残ッタ重要都市新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大」などと記されています。下の写真がその実物です。

(出典:総務省ホームページ

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_01.ht ml)

 

「知事布告」を受けて新潟市は8月11日午後1時30分から緊急町内会長会議を開いて疎開方針を説明します。
すでに市民の間には、8月10日夜から緊急疎開があるという噂が広まっていたために、郊外に通じる道は避難しようとする市民であふれていたそうです。郊外にツテがない市民には集団住宅が用意されたそうです。

新潟市はゴーストタウンに・・)
こうして新潟市からは人々が次々と街を去り、8月13日までに新潟市中心街は一部を除いて人がいない状態となります。市街地はもぬけの殻で、人影は全くなかったそうです。

この疎開終戦となる8月15日にようやく解除となり、新潟市に人々が戻り始めました。

 (実は新潟市は原爆投下候補から外れていた)
こうして原爆疎開が行われた新潟市ですが、8月2日、米軍は、作戦命令で、「原爆の第一目標は広島、第二目標は小倉、第三目標は長崎」として、新潟は、原爆投下目標からは外されていました。

その理由は、アメリカ軍の資料によると「新潟は工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域とが互いに遠く離れているため、この種の攻撃のためには不適当である」と記してあったそうです。

 

・・・8月11日は原爆疎開が行われた日です。