街道にある宿場の中で、
藩主や諸大名、代官などの高級人物が宿泊したのが
本陣と呼ばれる施設です。
出島がある長崎と江戸を結んだ長崎街道の
門司往還・大里宿にその本陣の跡地がありました。
(大里)
福岡県北九州市門司にある「大里」。
「大里」は、「だいり」と読みJR門司駅周辺地域の地域の事です。
かつて、安徳天皇がここに都を置いたことから、「内裏」と呼ばれ、文字が変化し
「大里」となりました。
安徳天皇の御所に関しては下をクリックして御覧下さい👇
(宿場町として栄えた門司・大里)
この大里は、港が整備され、さらに宿場町として発展します。
江戸時代に徳川幕府が諸大名に課した参勤交代制度。各藩の大名を交代で江戸に出仕させた制度ですが、大所帯での移動であり、さらに江戸から遠い場所にある大名にとっては江戸までの道のりが長いために交通費・宿泊費などかかる費用も莫大な負担になりました。
その一方で往来により文化や風習なども広がってきました。
大里は、江戸時代に整備された脇街道の一つ長崎街道が通ります。下の写真でわかるように小さな道ですが、周辺の建物は変わりましたが、道そのものは当時とほぼ形で残っています。
長崎街道は、江戸時代の鎖国政策の下で外国との交易を行う貴重な貿易港である長崎に通じる街道として重視され、同時に九州の大名が参勤交代で使用していました。
当時、小倉から大里へ通じる区間は門司往還とも呼ばれていました。
小倉藩は、参勤交代で武装した他藩の武士たちが小倉城下に宿泊するのをいやがり、
小倉城から少し離れた大里の地に宿場である大里宿を作りました。
そして大里宿に1799年、長崎奉行所が番所を作ったことで長崎街道の宿場町に含まれ、発展していきました。
(大里宿の本陣)
この大里宿の本陣跡地がありました。
本陣とは、小倉藩によって設置された藩営の施設で、藩主や諸大名、代官、オランダ使節などの高級人物が宿泊しました。御茶屋ともいいます。
長崎街道沿いの八坂神社の鳥居の左脇に「本陣(お茶屋)址」の石碑があります。
石碑には「大里宿史跡 本陣(お茶屋)」の文字が刻まれています。
石碑の側面には、「江戸時代、九州諸大名や長崎・日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中に休泊した、小倉藩の施設があった」と書かれています。
本陣は鳥居の左側一帯に建てられていたようですが、今は、その跡形もなく石碑だけです。
(地図で確認)
長崎街道の大里に、大里文化会・大里柳共有組合が設置した、当時の地図の看板がありましたので、そこで場所を確認します。
小さいので地図を拡大してみます。👇
さらに北九州教育委員会が設置した現在の地図をかいた看板もありました。
(おまけ話:長崎街道は象も通ったよ)
この長崎街道は、江戸時代に象も通っています。この象は天皇や将軍にあっています。詳細は下をクリックして御覧下さい。
このように繫栄した長崎街道門司往還大里宿ですが、幕末の1866年、討幕派の長州藩と小倉藩との戦争(小倉戦争)が起き、この一帯は、大火災となり、本陣を始め多くの建物は焼失してしまったようです。