九州の8割以上の大名が利用した宿場町を歩いて来たよ!
江戸時代になり、参勤交代制度が実施されると日本の交通事情・運輸体制が急速に進化・発展しました。
中でも当時、鎖国の時代にオランダとの窓口であった長崎と江戸を結んでいた「長崎街道」では、長崎から日本に持ち込まれた西洋文明や西洋技術が、長崎街道を通り江戸に運ばれました。
また、西洋から持ち込まれた砂糖(当時大変貴重でした)がここを通ったことから「シュガーロード」とも呼ばれていました。
ちなみに、八代将軍吉宗の頃には、ベトナムから運ばれてきた象がこの長崎街道を通り江戸へと運ばれています。
(宿場町として栄えた大里宿)
長崎街道は九州諸大名の参勤交代の宿場町として栄えていきます。
特に福岡県北九州市門司区大里(だいり)地区にある大里宿は、九州の8割以上の大名が参勤交代で利用していたため、五町五十二間(およそ646メートル)の間に、蔵屋敷本陣、番所、人馬中継所などの諸施設ができました。
(出典)
「藩主の細川忠興が江戸に渡るにはこの地・大里が最適の地として宿駅を設置し、以来江戸中期以降は九州の参勤大名の8割以上が大里宿より渡海往来したため幕末まで大いに栄えた。」(大里文化会、大里柳共有組合が設置した掲示板)
しかし、幕末になると高杉晋作率いる長州軍と小倉藩がこの地で戦った戦争により多くの宿場は焼失したそうです。
(今も長崎街道「大里宿」に残る当時の面影)
「一里塚」は、1里(およそ4キロ)ごとに設置されたものです。
「長崎番所」は1799年に長崎奉行所が、玄界灘に出没していた密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の代物を長崎に送る際の中継基地として設置しました。
「人馬継所」とは、旅行者を人足、馬、籠で次の宿まで運んでいた人や馬がスタンバイしていた場所です。
「高札場(こうさつば)」は幕府や藩の通達事項を掲示した場所、「南郡屋」は藩の役人が各村の庄屋に通達と打ち合わせを行ったところです。
薩摩藩や幕府及び公卿の御用商人「重松彦之亟」の屋敷跡です。
文化7年(1810)、日本全国を測量した伊能忠敬一行も滞在しています。
永野家は江戸時代の庄屋で熊本・福岡・久留米・中津藩の御用達を務めていました。
(旧島津邸)
街道沿いにあるこの屋敷は旧島津邸。 邸宅の前に並べてある石は何かわかりますか?
邸宅の前に並べてある石は、馬の乗った侍や旅行者が、乗り降りで使った踏み台です。そうわかると、なんかイメージが沸いてきますよね。
かつで長崎街道の大里宿は、松の木がびっしり植えられていたそうです。しかし、今も残るのはこの1本だけだそうです。
この松の木は樹齢350年以上と推測されますので、江戸時代初期から幕末をへて令和の時代の今も生き続けています。
この松の木、長崎街道を行きかう人々、侍、幕末の戦闘・・・色々な出来事を見てきたんでしょうね。
<<行き方>>
JR門司駅北口より海岸方面に徒歩5分
公式HP:北九州市門司区役所 https://www.city.kitakyushu.lg.jp/moji/w1100378.html