1945年(昭和20年)8月は、太平洋戦争の最後の月です。
ご存知ない方が多いと思うので、
この8月、終戦直前から、終戦を挟んだ数週間の間にソ連(現在のロシア)が、
日本に対し行ったことを列挙してみたいと思います。
【8月9日、日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告】
太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)の4月に、日本とソビエトは相互不可侵を約束した日ソ中立条約を締結します。
この条約は1946(昭和21年)年4月25日までは有効で、「その満了の1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間が自動的にこの条約が延長されるもの」と定められていました。
太平洋戦争での日本の敗色が濃厚になっていた1945年(昭和20年)4月5日に、ソ連政府は、翌年に期限満了となる同条約の期限を延長しないことを日本政府に通達していますが、1946年(昭和21年)4月25日までは、日ソ中立条約は有効でした。
しかし、8月9日、その条約を無視してソ連は日本に宣戦を布告し、満州・朝鮮・樺太の国境を越え侵攻してきました。
約束違反、国際法違反の不意打ち参戦です。
【対日宣戦布告打電妨害】
8月9日、ソ連の対日宣戦布告は、モスクワにある日本大使館に伝えられ、日本の大使がモスクワ中央電信局から日本の外務省に打電しました。
しかし、モスクワ中央電信局は日本の電信局に送信しませんでした。
つまり日本には宣戦布告情報がすぐには届かなかったのです。
ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始します。
日本時間の9日午前4時、日本政府は、ソ連の国営タス通信の報道やアメリカのサンフランシスコ放送を傍受してソ連の宣戦布告を知りますが、その時間はソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていました。そのため対応が後手後手になりました。
これひどいですね。
結局、日本に正式な宣戦布告文が届いたのは10日午前11時15分、マリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問したときで、ソ連が侵攻してからなんと35時間、丸1日半が経過していました。
「真珠湾奇襲の宣戦布告が遅れた」程度ではありません。
【終戦後になっても侵略】
8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し戦闘行為を停止し武装解除しました。
また、連合国側もほとんどの戦闘を停止しました。
しかし、ソ連は8月15日以降も戦闘行為を継続し、武装解除をした日本軍に襲いかかります。
20日には南樺太の真岡にソ連が上陸し、電話交換女子達「日本の皆さん さようなら」と最後に打電し青酸カリを飲んで集団自決した事件が発生しています。
8月22日には、同じく南樺太で、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられていた豊原駅
同時に、その日の朝には樺太からの引揚船「小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」
が留萌沖でソ連軍潜水艦に攻撃され、1700人以上の死者と行方不明者を出しています。
繰り返しますが、すでにこのときは日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をしていたのです。
ソ連軍は8月18日以降には、千島列島に侵攻。9月5日までの間に択捉島、国後島、色丹島、歯舞島のいわゆる北方領土を占領します。現在、問題になっている北方領土はココで終戦後にソ連が占領した島々です。
日本は、9月2日に東京湾に浮かんだアメリカのミズーリ号の上で降伏文書に調印しましたが、ソ連軍による攻撃は、その調印後も継続されています。
結局、ソ連軍は、満州、朝鮮半島の北部、南樺太、千島列島、北方領土の全域を完全に占領した9月5日にようやく、戦闘攻撃を終了しています。
これもひどい話で、終戦で武装解除した日本軍に攻め入り次々と占領しているわけです。
一方的に中立条約を破り宣戦を布告し、さらに終戦後も侵攻を続けたソ連は、満州で日本人民間人に略奪・暴行・強姦を行っています。
当時満州地区で暮らしていた人の手記や証言、体験談を読むと本当に胸が痛みます。
【シベリア抑留】
終戦後、武装解除され投降した日本軍兵士の中には、労働力としてシベリアに強制的に連れて行かれ、長期間に渡り強制労働の抑留生活を余儀なくされた人もいます。
これは、捕虜の虐待を禁じた国際法の違反であり、また「武装解除した日本兵を家庭に復帰させること」を約束したポツダム宣言違反でもあります。
抑留された日本人は、57万人以上で、氷点下の厳しい寒さのなかで満足な防寒服もなく、食事も不足した環境の下、森林伐採やダム建設、工場建設などの苛烈な労働を強要させられ、5万人以上が死亡したといわれています。
・・・・と、終戦直後からのソ連の動き・出来事をまとめました。
みなさん、終戦前後に何が起きたか、知っておくべきですし、それについて考えてみましょう。