おっさんは、皇居=江戸城は、テレビやニュースで散々聞いたことがあるものの、
実際に見た記憶がないので「実際行ってみよう」と思い先日、皇居に足を運びました。
この時、皇居に行く途中にあったのが、楠木正成像でした。
おっさんは、この像を生まれて初めて生で見ました。
第一印象は、「勇ましい!!」
この像は1900年(明治33年)7月に完成し献納されました。
1900年は、パリ五輪が開催され、中国では義和団の乱が起きた、そんな年です。
(楠木正成像)
皇居前にある像は、楠木正成が、1333年に隠岐の島に流されていた後醍醐天皇が戻って来るのを迎えた時の様子だと言われています。
本体の高さは4mあり、台座を加えると約8mになります。
本体部の重さは、約6.7トンと言われています。
銅像からは、「拙者、二重橋の正面にいて、何か起きたら今すぐにでも駆けつけ
参上いたしまする!!」という忠臣の心意気・勢いが感じ取れます。
(楠木正成とは)
楠木正成は鎌倉幕府末期から室町時代にかけて活躍した武将で後醍醐天皇に仕えました。少人数でも大勢の敵を何度も破る様々な戦い方や戦法を編み出した天才的軍略家としても知られています。
楠木正成は、鎌倉幕府倒幕の中心的メンバーの1人であり、建武の新政が,わずか数年で失敗した後には、後醍醐天皇について行動を共にし、やがて戦死します。
京都を追われた後醍醐天皇は、天皇の証である三種の神器を持ち出して、足利尊氏が新たに擁立した天皇に対抗して、奈良の吉野で「我こそが正当な天皇である」と主張します。
足利尊氏が擁立した京都の天皇の流れを「北朝」、吉野に移った後醍醐天皇の流れを「南朝」といい、この時期は、日本に2つの天皇、2つの政権、さらに1つの幕府(足利幕府)があるという非常に複雑な時期が続きます。
しかし、後醍醐天皇が吉野で開いた「南朝」は、その後わずか4代で途切れてしまい、1392年に3代将軍足利義満の時代に北朝と統一されます。
天皇同士による南北朝の争いが北朝側の勝利に終わったために、南朝側ついて戦死した楠木正成は北朝にそむいた「朝敵」となりました。
その後、1559年に正成の子孫を名乗る楠木正虎が、朝敵の赦免を朝廷に訴え、当時の
正親町天皇の勅免を受け、ようやく朝敵でなくなります。
(大楠公)
そして時は流れ、明治になると南朝が正統であるという見方が主流になり楠木正成は
イメージを回復します。
天才軍師的で、かつ戦死を覚悟で大義のために戦場に赴く自己犠牲の姿が「忠臣」、「日本人の鑑」として讃えられたのです。
そして敬意を持って「大楠公」と呼ばれるようになります。
そして戦前はお札の肖像にも登場します。
(かつての朝敵が皇居を守る??)
そこで、おっさんは考えました。
南朝が北朝に吸収合併で統一されたわけですから、今の天皇は北朝系です。
つまり、皇居に楠木正成の像があるということは、「北朝系の天皇を南朝の忠臣・楠木正成が守る」という形になっています。
しかも正成は、かつて朝敵だったのです。
そう考えると、なぜ楠木正成の像を皇居の守りにしたのでしょうか?
あるいは、1392年に南北朝が統一した時点で「天皇家が統一されたと考え今さら南朝・北朝ではなく“天皇”」である」、あるいは、単に「天皇に仕えた忠臣」という形で楠木正成の像を置いたのでしょうか。疑問です。
【皇居二重橋について書いたブログ】
<<楠木正成像への行き方>>
JR東京駅から徒歩10分
皇居を守る楠木正成像。
是非足を運んで御覧になって下さい。