1874年(明治7)12月18日、
金杉橋から京橋までの銀座通り沿いに
85基のガス街灯が灯りました。
日本で初めてのガス橙は横浜です。
その2年後の12月に、大商業地域で大繁華街でもあった京橋から南の銀座に
ガス橙85基が取付けられ、灯がともりました。
しかし横浜に比べて暗く、評判が良くなかったということです。
現在、京橋には1922年(大正11年)に設置された照明設備つき親柱1基、
そしてガス橙が残されています。
【1874年(明治7年)の出来事】
1874年は明治7年。
この年には、
北海道に屯田兵制度が施行されます。
ちょうど、明治維新政府が近代国家の国造りを始めていた時期です。
庶民の暮らしも変わっていきます。文明開化の頃ですなああ。
そのような時代の中、京橋地区は日本の中心地の1つとして繁栄していきます。
【「京橋」案内板に掲げられていた明治初期の京橋の錦絵】
江戸時代から、江戸の中心として賑わいを見せていたのが「日本橋」でした。
日本橋は、五街道の出発地であり、さらに水運も発達し物資の輸送も盛んで、
全国各地から人や物の交流・行き来があり、商業・文化の一大中心地として大発展を
遂げました。
(「京橋」の由来)
江戸時代の国民行事と言っていい伊勢参りや、天皇の御所がある京都、天下の台所と呼ばれた大坂へと向かうときには、日本橋を出発して東海道を進みます。
この時に最初に渡るのが、この京橋でした。「京へ上る最初の橋」であったことから、「京橋」という名前が付いたと言われています。
江戸時代に栄えた京橋地区は、明治になっても繁栄します。
【「京橋」案内板に掲げられてい明治40年ごろの京橋の写真】
1923年(大正12年)首都東京を関東大震災が襲い、京橋地区も壊滅的な被害を受けますが、震災から復興し、銀座近くの京橋地区にも、モガ(モダンガール)、モボ(モダンボーイ)が街を練り歩きました。
【「京橋」案内板に掲げられてい大正時代の写真】
当時の写真に、橋の両側に照明設備つき親柱1基があるのがわかります。
この地域は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には空襲を受けますが、戦後復興を遂げ1947年(昭和22年)には京橋区と日本橋区が合併して中央区となります。
しかし、1959年(昭和34年)に、東京の開発のために京橋川が埋め立てられ、
その真上には高速道路が作られます。
<<京橋への行き方>>
東京メトロ銀座線「京橋」駅1番出口から徒歩約2分
住所:中央区銀座1丁目2番先・11番先/京橋3丁目5番先
12月18日は、1874年(明治7)に、
銀座通りにガス街灯が灯った日です。