「板垣死すとも自由は死せず」
1882年(明治15年)4月6日、このセリフで有名な板垣退助が遊説中の岐阜県岐阜市で
襲撃されます。
板垣退助は、江戸時代末期の1837年に土佐藩で生まれました。
その後、世の中は江戸幕府がつぶれ、明治政府になりました。
しかし当時の明治政府は、倒幕運動の中心だった薩摩藩と長州藩、公家の、
しかも一部の人を主軸にした人たちによって行われていました。
そこで「国会を開き国民の意見を聞いて政治を行うべきだ」と主張する自由民権運動が各地でおこります。
その自由民権運動の中心人物の1人が板垣退助で、自由党という政党を結成し、その
総理を務めました。
年配の方々では赤茶色した「100円札の肖像画の人」として、なじみがあるかもしれません。
(板垣退助暗殺未遂事件=岐阜事件)
1881(明治14年)に、「10年後に帝国議会を開設する国会開設の詔」が出されました。板垣退助は自由党を結党し、自らがその党首となり、全国を遊説して自由党の勢力拡大に努めます。
1882年(明治15年)4月6日、自由党の総理であった板垣退助は、岐阜・金華山麓に
ある中教院での懇親会に出席し演説を行いました。
演説終了後、会場から宿舎に向かおうとしたときの事です。
入口を出た瞬間に短刀を持った刺客(実は小学校の教員)に襲われ胸や手などを負傷しました。左胸、右胸、指などに計7ヵ所の傷を受けます。
この時板垣退助45歳。
その時に、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、それが 「板垣死すとも自由は死せず」となったと言われています。
このセリフは日本史の教科書の明治初期の自由民権運動の項目で、必ず出てくる有名なものですね。
岐阜市の岐阜公園には、その言葉が発せられた地に石碑と彼の銅像、案内板があります。
おっさんも勘違いをしていたのですが、この時は板垣退助は刺されて重傷ですが、
命を落としていません。
彼は一命を取りとめ、この後も政治家として精力的に活動を行いました。
この時刺した人は、裁判で無期懲役になりますが1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布にからむ恩赦で釈放されます。
そして、板垣に逢い謝罪し、板垣もそれを許したそうです。
※板垣退助の石碑と彼の銅像、案内板がある岐阜市の岐阜公園は、岐阜城(稲葉山城)のふもとにあります。
(「板垣死すとも・・」発言に思う)
でも、おっさんは思うんです。
いきなり暴漢に刺さたときに「板垣死すとも自由は死せず」なんて言いますかねえ。
苦しくて言葉を発することができますかねえ。
しかもこのように気の利いた言葉がとっさに出ますかねえ。。
普通は「痛い!死にたくない!」とか「早く医者を呼んでくれ!」とか言うのじゃないかなあ・・。
そう考えると、ブレインがいて、この事件をうまく利用して自由民権運動を広めるきっかけになると考え、このセリフを思いついたんじゃないかなあとも思います。
この事件は新聞でも取り上げられました。板垣の言葉も当然新聞に書かれています。
そうなると「自由民権運動に命をかけた板垣退助!!」と民衆が受け止める可能性は大です。
事実、刺された後に、板垣が復帰して行った演説会には多くの民衆が集まったそうです。
(板垣事件後)
板垣らの自由民権運動のおかげで明治政府は1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を作り、翌1890年(明治23年)には、国会を開設します。
1898年(明治31年)には大隈重信とともに隈板内閣(わいはん ないかく)を作り
その内務大臣を務めます。
そして1919年(大正8年)7月16日、82歳で生涯を終えます。
【自由民権運動についてはこの本がお勧めですよ】
<<板垣退助遭難地への行き方>>
岐阜駅からバスで15分「岐阜公園歴史博物館前」下車 徒歩2分くらい