日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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7月14日 大姫死す

鎌倉時代の1197年7月14日、

源頼朝の娘・大姫が亡くなります。

 

この大姫は、気の毒な生涯でした。

日本初の幕府政権・鎌倉幕府を設立した源氏の棟梁・源頼朝の長女として生まれた大姫は、許嫁を親の命で殺害されるという事態に直面し、傷心のまま亡くなったのです。

 

 

(許嫁を殺されショックで衰弱)

1178年、大姫は源頼朝北条政子の間に第一子・長女として生まれます。

家族関係は以下の通りです。

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ただし、頼朝は当時の習慣として側室がいて、その子供もいます。

 

 

平安時代末期の1180年、以仁王の平家追討令を全国に発します。

それに呼応し、源頼朝は鎌倉で、従妹の木曽義仲は北陸で、それぞれ平家打倒を掲げ

旗揚げします。

 

打倒平氏を目指し、鎌倉・そして北陸で戦いを始めた2人の源氏。

この2人が和睦の証として頼朝の娘の大姫と義仲の息子・義高の結婚話させ、より親密な関係を築こうということで、1183年、義高は鎌倉に入ります。

 この時、善高は10歳、大姫は5歳くらいで、夫婦と言うより仲良し従妹という感じだったんでしょう。

 

木曽義仲は平家を京都から追い出し、自分が京都に入りますが、ここで後白河法皇

対立したため、後白河法皇は頼朝に義仲追討を命じます。

 そして1184年、正月に木曽義仲は、頼朝の弟の義経の軍にやぶれ討ち取られます。

 

同時に頼朝は鎌倉にいた義仲の息子の義高を殺害しようとします。

そりゃそうですよね。「親の仇」ということで、生かしていたら、いつ頼朝を殺しに

来るかわかりませんから・・

 

大姫は一緒に暮らすうちに義高と強い信頼関係を築いていたため、暗殺計画を知り、

女装させ義高を逃がします。

しかし、しょせん子供が逃げたところでどうしようもなく 義高は入間川で切り捨てられます。

 

大姫は「自分の身内のような固いきずなで結ばれていた、婚約者の義高を父親の命令で殺された」ことにショックを受け、父・頼朝と話すことを避け、食事やお湯ものどを通らず、床に臥せる日々になります。

 

そして傷心のまま体調は回復せず1197年7月14日、命を落とします。

なんとまあ、悲しいストーリーです。

 

(大姫を供養する岩船地蔵堂

大姫を供養する地蔵堂が、鎌倉幕府があった鎌倉市のJR鎌倉駅横須賀線沿いのガード近くにありました。

岩船地蔵堂です。鎌倉駅から亀ケ谷切通しへ向う途中、住宅地の中にある八角形のお堂です。

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 岩船地蔵堂の案内板、、

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<<岩船地蔵堂への行き方>>

JR鎌倉駅横須賀線沿ガード近く

住所:鎌倉市扇ガ谷3

 

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