平安時代の903年2月25日、
失意のまま59歳で亡くなります。
(学問の神様:菅原道真)
菅原道真と言えば日本史の教科書には894年に遣唐使を廃止を進言した人と書かれていて、また受験シーズンには学問の神様で、菅原道真を祀る太宰府天満宮や北野天満宮がニュースで取り上げられます。
菅原道真の家系は代々続く学者で、道真は、宇多天皇に重用され、
右大臣まで上り詰めます。
学者で右大臣にまで上り詰めたのは、吉備真備と菅原道真の2人だけしかいません。
当時は藤原氏が摂関政治を行っていて朝廷内で勢力を誇っていました。
宇多天皇は、朝廷での藤原氏のふるまいをよく思っていなく、藤原氏ではなく
菅原道真を重用していきます。
その菅原道真の功績の1つが、894年に行った遣唐使の廃止です。
【遣唐使廃止について書いたブログはココ】
(勢力争いに巻き込まれる)
菅原道真は昇進するとともに、藤原氏と同じ様に、自分の娘を天皇の子供や皇族に
嫁がせていき、皇室ネットワークを築き、勢力を伸ばしていきます。
897年、宇多天皇は息子の醍醐天皇へ譲位し、自身は上皇になります。
その2年後の899年には菅原道真が右大臣、藤原時平は左大臣になります。
昇進し一族で皇室とのつながりも深くなっていく菅原道真、
そうなると藤原氏にとって、邪魔な存在となります。
しかし、転機が訪れます。
道真が右大臣になったの年の10月24日、菅原道真を重用してくれていた宇多上皇が
出家し、東寺で受戒したあと和仁寺に入って法皇になります。
すると宇多法皇は、仏教に集中し政治とは距離を置くようになっていきます。
こうなると菅原道真は、強力な後ろ盾を失い、朝廷での立場が、今までとは異なり
苦しくなっていきます。
901年、左大臣・藤原時平が醍醐天皇に「菅原道真が醍醐天皇を引退させ、道真の娘を嫁がせた斉世親王を皇位につかせようと企んでいる」というウソ話を伝えます。
1月25日には菅原道真に「『太宰権帥』に任命する。」という通達が届きます。
これは事実上の左遷です。
この時、菅原道真は56歳。10人の息子と3人の娘がいて、それぞれ朝廷内で重職にありましたが、朝廷内から排除されます。
(自費で左遷の地太宰府へ)
京都の朝廷での地位を失い、太宰府へ移動となった道真でしたが、太宰府への移動は
自費でした。京都から太宰府までのお金が自費ですよ!
菅原道真は、都落ちで落胆しつつ左遷の地太宰府に向かうために浪速の津で乗船しようと潮時を待っていました。その時に時間の余裕があったので30センチほどの木造を彫ります。その木像を譲り受けた里人が祀った神社が大阪にあります。天然寺です。
この天然寺には、菅原道真が腰を掛けたと伝わる「お座りの石」がありました。
(太宰府で失意のまま死去)
道真の太宰府での役職は「太宰員外帥」というもので、これは、俸給や従者も
与えられず、政務にあたることも禁じられた名ばかりの職種でした。
住む家も隙間風が入るボロボロの家屋で、まさに都落ちです。
そして太宰府に赴任した2年後の903年2月25日、菅原道真は京に戻ることなく、失意のまま亡くなります。59歳でした。
ということで2月25日は