上記の写真は、沖縄県平和祈念公園にある国立沖縄戦没者の墓苑です。
沖縄戦で亡くなられた住民や軍人などの遺骨が納められています。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月1日、
米軍上陸部隊が沖縄本島に上陸しました。
沖縄戦の始まりです。
【沖縄戦を告げる日本ニュース】
(市民を巻き込んでの沖縄戦)
4月1日早朝、米軍の陸軍4個師団、海兵隊3個師団など約20万人の兵力が沖縄本島
中部に上陸作戦を開始します。この作戦には米英機動部隊などの艦船1300隻と艦載機1700機が参加しました。
上陸前に米軍は上陸地の海岸部を中心に、沖合に停泊中の戦艦や巡洋艦から4万5000発の艦砲射撃、さらに3万3000発のロケット弾、2万3000発の迫撃砲を撃ち込み、空母から飛び立った艦載機による銃爆撃も行います。もう無茶苦茶です。
迎え撃つ日本は陸軍約8万6000人、海軍約1万人のほかに中学生以上の沖縄県民2万~2万5000人も戦闘に参加します。さらに高等女学校の生徒らも臨時の看護婦などとして従軍します。
中でも、沖縄県立師範学校女子部と県立第一高等女学校合同の従軍看護隊のひめゆり部隊が有名です。
ちなみに、この名前の ひめゆりとは、両校のシンボル〈白百合〉と〈乙姫〉にちなんでいます。
(日米壮烈な地上戦)
1945年(昭和20年)4月1日、連合軍は1時間余りで1万6千の戦車部隊を上陸させ、昼には嘉手納、読谷の飛行場を占領します。
日本軍は物量で勝る米軍に対抗するため地下壕をつなげた洞窟に陣地を作り、ここから攻撃を仕掛けていき、日米の壮絶な戦いとなりました。
首里城の地下には、第32軍司令部壕があり、5月末に日本軍が沖縄南部に移動するまでの1か月使用されました。
(組織的な戦闘は6月23日まで続く)
連日日米の地上戦が繰り広げられた沖縄戦ですが、6月20日ごろには日本軍の組織的な抵抗はほとんどなくなり6月23日、牛島満軍司令官と長勇参謀長は摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決し、およそ3か月に及ぶ沖縄での日本軍の組織的な戦闘が終了します。
この地上戦で、県民の戦没者は沖縄全体で10万~15万人にのぼり日本軍の戦死者は現地召集の兵士も含め約9万4000人をこえています。女性や子どもなど非戦闘員の集団自決なども発生しています。
しかし、牛島司令官は部下に対して最後まで戦うように命じていたため、日本兵に
よる抵抗が沖縄各地で続きます。
・・・ということで4月1日は沖縄戦が始まった日です
亡くなられた方への冥福をお祈りします。
【沖縄平和記念公園の平和祈念堂】