日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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5月29日 与謝野晶子死す

 

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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

嗚呼 弟よ 君に死に給うことなかれ・・・

で有名な歌を詠んだ歌人与謝野晶子

この与謝野晶子が5月29日死去します。数え65歳。

 

(堺に生まれる)

与謝野晶子は、1878(明治11年)12月7日堺県堺区(現在の大阪府堺市)甲斐町四六番屋敷にあった菓子商「駿河屋」の二代目鳳宗七の三女として誕生しました。

良家のお嬢ちゃんです。

 

(旅順攻囲戦に行く弟に向けて「君死に給うことなかれ」)

与謝野晶子は、堺女学校を卒業後、1901年(明治34年)22歳の時に歌集「みだれ髪」を発表します。

そして日露戦争中の1904年(明治37年)9月に雑誌「明星」に発表した長詩「君死にたまふこと勿れ」は出征し旅順に行った2歳年下の弟・籌三郎(ちゅうさぶろう)の身を案じて詠んだもので、教科書によく出る有名な歌です。

当時は男尊女卑が強く与謝野晶子は弟にも「死に給うことなかれ」と敬語を使っています。

この歌は、「戦場に行く兵士に死なないで」と訴えたり「天皇の事を持ち出している」ことから国賊的であると批判を受けました。

 

(「君死に給うことなかれ・・の弟はどうなった?)

で、与謝野晶子が「明星」で紹介した、この弟・籌三郎がどうなったのか、おっさんはすごく気になりました。

だって冷静に考えてみて下さい。たぶん本人に知らせないまま姉ちゃんが雑誌に発表した歌、しかも自分のことを書いた歌が日本で大騒ぎになったんですよ。

その歌の題材となった弟の籌三郎は、当然皆から「あいつが明星で書かれていたあの弟だあ」と言われたに違いありません。軍隊で何か陰湿ないじめにあってなかったのでしょうか?

あるいは和菓子屋を営む実家も近所の人から反戦家族だと白眼視されなかったのでしょうか?

 

与謝野 晶子の二歳年下の弟の鳳 籌三郎(ほう・ちゅうさぶろう)は、大阪第4師団8連隊・第三軍輜重兵として日露戦争に従軍します。

しかし旅順攻囲戦には参加していないのでは?という意見もあります。

 

 

 

(大正時代の文学をけん引)

晶子は、大正時代に入ると社会評論を多く執筆し、大正デモクラシー期の文学をけん引します。 

また 古典の研究にも力を注ぎ、特に「源氏物語」の現代語訳を作成するほか、「新訳栄華物語」、「和泉式部歌集」の現代語訳も作成しています。 

1942年(昭和17年)5月29日数え65歳で死亡します。

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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 

(略奪愛と13人の子供)

与謝野晶子の御主人は与謝野鉄幹ですが、女学校の教員をしていました。

晶子と出会ったとき、鉄幹には2番目の奥さんと子供がいた不倫です。

そして、その妻と別れ晶子と結婚します。「みだれ髪」発表の2か月後でした。

そして最終的には12人の子供を産みました!(おいおい!!)

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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 

堺駅前にある与謝野晶子像)

南海電鉄堺駅の西、住所で言ったら大阪府堺市堺区戎島町に与謝野晶子像があります。

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これは与謝野晶子の生誕140年を記念1998年(平成9年)5月29日に建立されたブロンズ像で幅:130センチ 奥行き:130センチ 高さ:235センチです。

御影石の台には、

晶子の望郷の歌

「ふるさとの 潮の遠音のわか胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」が刻まれています。
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<<与謝野晶子像への行き方>>

南海堺駅

住所:大阪府堺市堺区戎島町4丁45

 

ということで5月29日は、歌人与謝野晶子

その豪快な人生に幕を下ろした日です!

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