鎌倉殿の13話第40話「罠と罠」
これは、義時があの手この手でなんとか和田義盛を陥れようと画策を色々すると言う
実に後味が悪いものでした。平均視聴率は11.3%でした。
では、ストーリーを見ていきましょう。
(自然とリーダーになる和田義盛)
1212年春、火事で焼けた閑院内裏の修復を計画する後鳥羽上皇は、藤原兼子のアイディアでその工事を鎌倉方にやらせようとします。
しかし工事には膨大な費用がかかるので、命じられる方は、たまったもんじゃありません。
修復工事要請の知らせを聞いた御家人たちは当然反発し、和田館に集まります。和田義盛は、周囲をなだめますが、自然に反対派のリーダーのような立場になっていきます。この状況を知った義時は「最も頼りになる者が最も恐ろしい。消えてもらうか?」と
和田一族の抹殺を考えます。
(泉親衡(いずみ ちかひら)の乱)
翌年の1213年2月、泉親衡の乱が勃発します。
泉親衡という男が、御家人を集め北条を討ち滅ぼそうと画策します。
この陰謀に関わった者の名前が判明し、その中には和田義盛の、四男・和田義直と
五男・和田義重 、甥・和田胤長がいました。
和田義盛は、事の真相を息子の義直、義重、甥の胤長から聞きます。
胤長が最初に親衡から声をかけられ、仲間になっていき、義直と義重は胤長に誘われ
話を聞きに行っただけだと言います。
さて、この泉親衡と言う人は、御家人たちを焚きつけますが、急にいなくなっていました。
この事件の首謀者の泉親衡ですが、大江広元が調べても素性が分からず、この騒動の
背後に後鳥羽上皇がからんでいるのではと推測します。
大江広元は「鎌倉の政を北条が動かしているのが、上皇様はお気に召さないようです」といいます。後鳥羽上皇と北条の戦いはこの8年後です。
ナレーションはこう言います「泉親衡。多くの謎に包まれている男。突然現れ、御家人たちをそそのかし、突然消えた」・・・。
泉親衡の正体は、京都から来ていた源仲章でした。
(和田義盛が直談判に来るも・・)
義時は、今回の騒動を、和田一族を滅ぼすいい機会だと考えます。
和田義盛は、「泉親衡に騙されただけだ」と義時に頭を下げに行きます。
義盛は、義時に。良い返事がないなら、相撲で決めようとか、二度とこんなことさせない証拠に眉毛そるとか言います。どこまで本気なのかユーモラスなのか・・・
大江広元は義時に、今回の動きは、頼朝時代の坂東制圧の功労者であった上総介広常の最期がよぎると話します。
義時は、大江広元に「最も頼りになる者が最も恐ろしい…消えてもらう、か」と和田滅亡を口にします。
義時は理不尽な殺され方をした上総介を泣いて悔しがっていたのに、この変わりようは何だ!!
(和田の集団直訴)
結局、今回の騒動に名を連ねた3人のうち和田胤長は他の御家人を誘っていたという事で罪に問われ陸奥国への流罪が決定しました。
このことを許して欲しいと、和田義盛と和田一族98人が御所に訪れ、集団直訴をしようと動きますが、相手にされません。
まあ、普通に考えてここで幕府の決定事項を変えたら、政の威信に関わるから当然ですね。
この場では、皆がいる前に、みせしめのように、身体を縛られ烏帽子もはずされた胤長が連行されていきます。コレは屈辱です。
(いとこどうし)
「変わってしまったよな。蔵の中で、黙ってた次男坊はどこいったんだ。」
そうです、最初の頃の義時はそんな地味でまじめな好青年でした。
義村は、義盛に「力になってやってもいいぞ。いっそ、北条を倒して俺たちで鎌倉を
作るのはどうだ?和田義盛がたてば、多くの御家人がついてくる。御所に攻め入って
鎌倉殿を救い小四郎の首をとる。北条ばかりが得をする世の中を俺たちが変えるんだ。」とけしかけます。
そのとき和田胤長の6才になる娘が、父・和田胤長に再会できぬまま急死します。
(父上は間違っている)
今回のドラマで、義時の息子・泰時がよく使う言葉に「父上は間違っている」という
キーワードがありますが、今回もこの言葉が登場です。
泰時は「なぜ、和田をそこまで追い詰めるのです。このままでは戦になります。」と
言います。
すると義時は、北条の世を盤石にするため、和田には死んでもらう。と冷たく答えます。この表情が凄く冷酷・・。
義時は、10年経ち、20年経ったときに必ず和田一門が立ち上がる。だからその前に和田の根を断ち切るというのです。
しかし、泰時は「誰とも敵対することなく安寧の世を作ります。父上は、間違っています。」と返します。
このやりとりに義時は怒り泰時に謹慎を命じます。なんだかなああ。。。
(三浦義村という男)
そこに三浦義村が報告にやってきて「あと一押しだ。髭のおやじは、必ず挙兵するぞ。」と言います。
三浦は義時と通じていたのです。またしても義村の裏切り行為!
・・・この人はもう・・・。
なんとか和田を滅ぼしたい義時は、三浦義村に、和田に挙兵させるようにたきつけていたのです。もうなんだか。。。
この義村の動きに、義村の弟の胤義は不満を抱きます。
すると義村は
「そうやって俺は生きてきた。上総、梶原、比企、畠山。幾人が滅んだ。三浦はまだ生き残っている。つまりはそういうことだ」と言い放ちます。
うーんコレも処世術なのか、したたかな生き方なのか・・。
(政子の訴え)
義時から謹慎を命じられた泰時ですが、なんとかしよう政子に相談します。
事情を聞いた政子は、義時に和田とのいざこざを治めるように言い、義時は、いったんは引きます。
(おばばの予言)
実朝は千世を伴って歩き巫女のおばばに会います。
おばばは「鎌倉が火の海になる。死ぬ、みんな死ぬ。由比ガ浜にヒゲ面の首が並ぶ」といいます。嫌な予言です。
でも、思うに、このシーンはいるんでしょうか?総集編では真っ先にカットされる項目だと思いますが・・・。
(お家取り上げ)
和田滅亡を企む義時は、次の手を打ちます。
流罪になった和田胤長の家を取り上げたのです。通常は、罪人である和田胤長の館は
同じ和田一門が引き継ぐのですが、今回はそれを義時が自分のものにしたのです。
義時に話を聞こうとする鎌倉殿の実朝に対し「戦には、大義名分が必要です。向こうが兵を挙げれば、謀反です。われらは、その鎮圧のために兵をだせます。以後、戦になりますので外出はお控えください。」と告げます。
そして、義時は時房に戦の準備を命じます。
つまり向こうから仕掛けてくるように仕向けているのです。なんと策士な!!
(4人会議で手打ち??)
和田とは仲が良く、また和田の性格を熟知している鎌倉殿の実朝は、このままでは義盛が挙兵してしまうと焦り、尼御台の政子に助けを求めます。
そこで政子は、「我が家に伝わる秘策…。今のところ1勝1敗ですが」という言葉で、義盛を女装させて御所に呼びます。
まあ、このシーンがおかしくて、あの義盛が綺麗な服でくる妙なアンバランスさが受けますね。
こうして、久しぶりに義盛と対面した実朝は「死なせたくない。そばにいてくれ」と
訴えますが、義盛は「兵をあげなければ、武士として末代までの恥でございます」と
答えます。
また実朝は、「いつまでも側にいてくれ。小四郎も鎌倉を思ってのこと。二度と行き過ぎがないよう、私が目を光らせておく。和田義盛は、鎌倉一の忠臣じゃ。それはわしが一番わかっておる。」と訴えると、義盛の目に涙が浮かびます。
実朝は、政子、義時と義盛を同席させます。
戦をしようと構える義時と義盛が同じ席に着いたのです。緊張が走ります。
この席で、和田義盛・北条義時、双方とも戦を辞め、鎌倉のために尽くすことを約束しました。
その後、源実朝は和田義盛をすごろくに誘い席をたちます。
しかし政子は、義時が約束をしたものの和田を滅ぼす考えは変わってないことを見抜いていました。そこで「戦をすることなく鎌倉を栄させてみせなさい」。と強く言います。
廊下では、和田義盛が義時を待っていました。
「考えてみれば、みな死んじまったなあ。昔からいるのは、俺と平六ぐらいだ。今の
鎌倉殿は、賢いし何より心が温かい。ようやく俺たちは、望みの鎌倉殿を手に入れたのかもしれんぞ。政はお前に任せるよ。何か困った事があったら言え。力になるから。
これからも支えあっていこうな、小四郎。」そう言います。
うーん和田義盛、実に良い奴だなあ~。
(時すでに遅し)
さて、手打ちが行われたその頃、和田館では和田義盛の帰りが遅いことから、北条に謀られたと思い、息子たちが着々と戦の準備を整えていました。
彼らは大江広元の館を襲う計画でした。
そこにいた八田、長沼宗政らに三浦義村が言います。
「先に言っておくが、この乱は失敗する。俺が、向こうにつくからだ。兵を挙げたら、寝返ることになっている。」
この言葉に八田、長沼は三浦につくことにしました。
和田義直が先発隊を率いて出陣しようとしていたとき、和田義盛の妻・巴御前が「お待ちください。和田を裏切らないと起請文を書いてください。」と三浦義村たちに言います。
これ今回のMVPですね。起請文というものを出されたらもう裏切りはできません。
巴御前さすが!
三浦義村たちは渋々起請文を書きます。これで寝返りはできなくなりました。
義時は、三浦義村に中止を伝えようとトウを和田の館に向かわせます。
しかし、すでに和田勢は、戦へと動き出していました。
こうして5月2日、鎌倉を舞台とした最大の激戦、和田合戦の火ぶたが切られます。
次回は和田合戦です。