明治時代の1890年(明治23年)に完成した関門海峡の守り、
下関要塞の火の山砲台。
ここは、当時の施設の一部が今も残っていて、
自由に入ることができます!!
(下関要塞火の山砲台)
山口県下関市の関門海峡沿いにある標高268mの山「火の山」。
ここには1888年(明治21年)、下関要塞の一部として「火の山砲台」の建設が始まり、1890年(明治23年)に砲台が完成しました。
下関要塞火の山砲台には、砲台があり、地下にはや指令室、倉庫があり兵舎や倉庫などの構造物が作られていました。
明治維新後、一等国の仲間入りを目指し殖産興業・軍備増強に力を入れる明治政府が、当時のアジア情勢の中、清国の北洋艦隊や、ロシアのバルチック艦隊の来襲に対し
本土防衛のため榴弾砲などを備える砲台を各海岸部に築きました。
そのうちのひとつが関門海峡に面した火の山の山上に築かれた火の山砲台です。
写真の赤丸で囲んだ部分です。写真右が九州・福岡県北九州市門司区、左が本州山口県下関市。橋は関門橋で、下の海が関門海峡です。
関門海峡は海の要所と言うことで以下のように砲台が各所に作られました。
今回取り上げる火の山砲台は赤で囲んだ部分です。
火の山砲台には第一から第四まで4ヶ所に砲台が4つ築かれ、各2門ずつ計8門の砲台がありました。
ここは砲台設置以降、軍事秘密拠点という事で一般人の入山および写真撮影が禁止でした。今は、火の山公園になり開放され当時の軍事要塞の建物の一部に自由に立ち入ることができます。
(第一砲台と第二砲台)
第一砲台と第二砲台には、28cm榴弾砲を各4門配備していました。
しかし第一砲台は、山頂の火の山ロープウェイの火の山駅建設時になくなり、
第二砲台もまた、旧展望台建設時に破壊されています。
ちなみに28cm榴弾砲(二十八糎榴弾砲)は日露戦争で203高地占領や旅順総攻撃に
投入され活躍した物です。
火の山公園には下関要塞火の山砲台跡の第三砲台、第四砲台の跡が今もその姿を見る
ことができます。
(第三砲台)
第三砲台は大砲が据えられていた砲座部は、バスの転回所周辺にあります。
第三砲台には24cm加農砲(カノン砲)8門が備え付けられていました。
今は、弾薬を収めていた側砲庫が残されています。
(第四砲台)
第四砲台は当時の面影が一番残っています。
第四砲台には指令室が、観測所、28cm榴弾砲2門、15cm臼砲2門、12cm加農砲(カノン砲)2門が備えられていました。
ここが指令室です。
指令室の入り口。自由に立ち入ることができます。
指令室の中は立派な、そして頑丈な赤レンガ造りです。
司令部の先には、観測所がありました。
その先には、榴弾砲座の跡がありました。
指令室から左側に地下に向かう階段があります。
下に降りていくとコンクリート造りの地下要塞みたいな建造物があり、
ここも自由に入れます。
石が積まれた頑丈な壁です。地下の部屋は全部で7つありました。
兵員の部屋だったそうです。
説明の図がありました。
かまどが残っていました。100年以上前の物ですが、今でもキャンプで使えそうです。
こちらは井戸。
下の写真は外から見た様子。
ここは、外から見ると木々に覆われ、どこにあるのかが、よくわかりません。
(写真左部分、柵を降りたらその部分です)
(高射砲の跡)
また、太平洋戦争時に、空からの守りとして高射砲が備え付けられた跡地もあります。
第四砲台には、現在放送局などの電波塔があるすぐ下には火薬庫がありました。
放送局の電波塔建物付近には、15cm臼砲2門、12cm加農砲(カノン砲)2門が備えられていました。
放送所から見た関門海峡です。一望できます。
(第四砲台を囲んでいた堡塁)
第4砲台は周囲を堡塁で囲まれて守られていて今もところどころその名残を見ることができます。
堡塁は、上がレンガ2枚、その下が岩が重ねられていました。
(戦艦大和の砲弾も)
火の山砲台には展望台部分に、なぜか戦艦大和の砲弾があります。
大和に3基9門装備されていた46cm砲は、全長1.95m、重量1740kg、最大射程距離42kmとバカでかいものです。写真のおっさんとその大きさを比べて見て下さい。
下関要塞 火の山砲台は、施設が残っていて、さらに、立ち入りもできます。
お勧めですよ!!
また、ここからの関門海峡の眺め、そして潮風も気持ちいですよ!!
【下関市公式観光サイトに記された火の山公園】
<<下関 火の山砲台跡地への行き方>>
JR下関駅からサンデン交通バス火の山行きで20分、火の山下車
中国自動車道下関ICから3.5km 火の山パークウェイ駐車場は276台駐車可能で無料!
【この地図の左下にある四角い写真をクリックすると航空写真に変わります。】
関門海峡地域に置かれた要塞はまだまだありますので、このいくつかはまた行きたいです。