4月14日は
奇兵隊創始者、長州藩の高杉晋作の命日です。
その命日当日に、高杉晋作終焉の地を訪れました。
高杉晋作・・・幕末を語るうえで欠かすことができない人です。
おっさんは子供の時に、司馬遼太郎が書いた「花神」と言う本を読み、以来、高杉晋作が好きになりました。
なんかとても、かっこいい生き方なんですよね。
高杉晋作は、長州藩の武士の子で、松下村塾門下生。
尊王攘夷の中心人物であり、馬関戦争時の長州藩代表の1人、奇兵隊創始者の1人、
討幕運動の中心でもありました。
その高杉晋作は、1867年4月14日、結核がもとで、山口県下関市で亡くなります。27歳、この年に行われた大政奉還を見ることなく亡くなりました。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の歌でも知られています。
【4月14日 高杉晋作終焉の地に掲げられていた写真です】
(高杉晋作終焉の地)
高杉晋作の終焉の地は、山口県下関市のJR下関駅西口から10分ほど歩いた住宅地の一角にあります。
綺麗に整備されていて、奇兵隊ののぼりも立っていますので、すぐにわかります。
この場所は、大庄屋の林算九郎と言う人の邸宅の離れで、高杉晋作はここに住んでいて
「緑堂」と呼ばれていました。
命日当日の4月14日午後3時ごろ、おっさんは終焉の地を訪れました。
おっさん一人しかいなくて、ひっそりとしていました。
命日の当日と言うことで、千羽鶴が両側に飾られ、白い布がかぶせられた台の上に高杉晋作の写真が置かれ、お供え物もありました。
討幕の主要な中心人物の1人の終焉の地としては地味で、期待外れでしたが、それが逆に高杉晋作らしていいかもしれません。
終焉の地には、説明版がありました。
1867年4月14日死亡と書かれています。
今年は2020年ですから、この地で死亡して153年と言うことでしょうか・
(ここにも、コロナの影響が!)
例年は、高杉東行碑前祭りが開催されているそうですが、今年2020年(令和2年)は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため中止となりました。
この高杉東行碑前祭りは、地元の新地自治連合会の主催で
これまでの祭りでは、読経と焼香のほか下関吟魂会の献吟、三味線、剣劇、劇団の寸劇などが披露されたそうです。
(高杉晋作の偉業)
長州藩の武士の子として生まれた高杉晋作は、吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、その優秀さで、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれました。
(参考)京都の霊山護国神社には、久坂玄瑞と高杉晋作の墓が同じ場所にあります。
【霊山護国神社について書いたブログはここです】
1863年5月10日、長州藩は関門海峡で外国船に対し砲撃を行いますが、逆に報復を受けます。この時、晋作は下関の防衛を任せられます。
6月には「武力を持つのは武士のみ」と言う時代に、身分にこだわらない兵隊組織の奇兵隊を結成します。
1864年8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃し、砲台が占拠されます。(馬関戦争)
この時、24歳の晋作は和議交渉の窓口を任され、諸外国と交渉します。
この講和会議で連合国は「彦島の租借」を要求しますが、晋作は拒否し撤回させます。
また高杉晋作は、攘夷は幕府の命令で長州藩はそれに従っただけだから賠償責任先は、幕府にあると主張し、賠償をしていません。
【馬関戦争について書いたブログはここ】
1864年12月15日には、下関市長府にある功山寺で高杉晋作は、尊王討幕の決起を行います。
1866年の第二次長州征伐の時には海軍総督として「丙寅丸」に乗り指揮を執り幕府軍を破り、さらに小倉藩を攻め敗走させます。
しかし、1867年4月14日、下関市桜山で肺結核の療養中に死去します。満27歳でした。
【高杉晋作などの幕末を知りたいならこの本がいいです】
(おまけ!)
下の写真は、高杉晋作終焉の地のすぐ近くにあった お店です。
「晋作」というネーミングのセンスもさることながら、
「本格炭火焼肉・鉄板焼・石焼ビビンバ」というレパートリーの広さも
おっさんのストライクゾーンをついています。
<<高杉晋作終焉の地への行き方>>
JR下関駅西口徒歩10分以内 妙蓮寺と言うお寺の前です
住所:山口県 下関市 山口県新地町1